雪に咲く蒼華は哀を謳う




「──ねぇ、俺を殺してよ」



白い吐息とともに耳元で零されたのは、予期せぬ甘やかな囁き。
音もなく沙夜の真後ろへと降り立った彼は違わず沙夜へそう言った。
視界にちらつく雪は幻想的で深々と降り積もっては音を吸収していくのに、彼の言葉だけまるで吸い込まれるのを拒否しているかのように 耳へと響く。
驚く暇さえ与えられない、突然の出来事だった。



先ほどまでうずくまりながら泣いていた沙夜は一瞬目の前の人物の判断に困るが、すぐにその名を思い出す。
見たことも会ったこともない人物――けれど、誰よりも沙夜が捜し求めていた人。
初めての邂逅は、それにふさわしく白銀の世界に演出されていた。
どちらかが流すであろう血が一番美しく映える、真白と闇の二色に包まれた世界へと。



すぐに腰に手を伸ばし、自らが常に身に着けている銀の短剣を探る。
握りなれた柄の感触を確かめてぐっと握って目の前にかざすと、短剣はかすかに雲間からのぞく月の光を弾いて白く輝いた。


「そんな望み、言われなくともかなえてあげます」


先ほどの彼の言葉にそう答え、すっと距離を詰める。
――望まれなくとも、沙夜は彼を殺すつもりだった。
沙夜が今まで生きてきた目的は彼に復讐をすること。
ただそれだけのために、沙夜は闇の住人の狩人となったのだ。


「悪しき闇を葬るため、紫夾沙夜は狩猟の鐘(ベル)を鳴らす――。闇の狩人(ヴァンパイアハンター)の名の元に……!」


そう叫んで彼の元へと走り、短剣に力を込める。
そんなに殺して欲しいなら、すぐに殺してあげましょう。
短剣の先が目指すのは彼の心臓。
そこにこの剣をつき立ててしまえば、あなたは楽に死ぬことができるから。
そうして剣を振りかぶる。


なのに──殺せなかった。
どれだけ腕を動かし、彼の心臓に銀剣を突き立てようとしても、手はふるふるとそれを拒むかのように微かに震えるだけ。
沙夜にはそれが信じられなかった。


彼の心臓に剣を突き立てようとした瞬間、彼の双眸──澄み切った蒼氷色の万年氷河にふわふわと舞い降りた雪片ような、 不思議な白青色──に見つめられ、吸血鬼ルウェルディアの姿に見とれてしまったなんて。
彼を、美しいと思ってしまったなんて――。

永遠に続くように思われた静寂のなか、沙夜はずっと彼から目を離せないでいた。
孤高の吸血鬼王ルウェルディア・ラルフローレンと呼ばれる、黒髪青目のヴァンパイア、その人から。


静寂が破られたのは、彼が美しい相貌に浮かべた甘美な表情を崩し、呟いた時だった。



「何だ、つまんねぇの。あのセーヴァを殺した奴って聞いたから、俺を殺してくれるのを楽しみにしてたのに」
「セーヴァ、って……雪の女王リセアヴァンセルのこと……?」



沙夜が何とか瞳の呪縛から逃れ、掠れる声を振り絞って問いかける。
雪の女王(シエラ・キャロル)と呼ばれたヴァンパイア、リセアヴァンセルはルウェルディアの愛人といわれ、彼と同じく 下位ヴァンパイアたちの上に君臨していた高位ヴァンパイアだ。


一月ほど前、沙夜がルウェルディアの足跡を掴みかけたときに現れた彼女は、彼に手を出すなと言って向こうから攻撃を仕掛けてきた。
結果は沙夜の勝利に終わったけれど、高位ヴァンパイアを殺したのは初めてだったことと、罪のないヴァンパイアを手にかけてしまった ことで、かなり後味が悪く後悔した狩りだった。
沙夜たちヴァンパイアハンターは、むやみやたらにヴァンパイアを狩る者ではないからだ。


狩るのは人間とヴァンパイアの間にあるルールを破ったヴァンパイアだけ。
そして基本的にそのルールを下位のヴァンパイアが破らないように監視して統治下におくのが高位ヴァンパイアなため、よほどのことが ない限り高位ヴァンパイアを狩ることはない。
向こうから攻撃さえしてこなければ、沙夜に彼女を狩る理由はどこにもなかったのに。


そんな思いを巡らせながら問いかけた沙夜の問いに、ルウェルディアは少しばかり驚いた顔で応えた。



「へぇ……俺が目をそらしただけで喋れるようになるんだ。さすがだよ。気に入った」
「私の質問に……答えて」
「気が強いんだな。ますます俺好みだよ、沙夜」



あくまでも問いかけには答えようとしないルウェルディアに、沙夜は歯噛みする。
じりっ、と短剣を握りしめて足を踏み出すと、とたんにその美しい相貌が沙夜へ向けられた。
──先ほどとは全く違う無数の氷の刃に覆われた仮面を纏う相貌に、沙夜の五感が戦慄した。


「……っ、本性を……現した、わね……っ」


突如肌を無数の焼けた刃で突き刺されたような威圧感が襲う。
気を抜けば直ぐに平伏してしまいそうになるほどのそれを、沙夜は気力で耐えた。
まだこちらのほうが耐えられる。
──あの、甘やかな瞳に捕らえられてしまうよりは。



「なるほど。こっちは耐えられるんだ。通りでセーヴァがやられるはずだよ。女に色仕掛けは通じないもんね」



怖い。寒気がする。
肌をじりじりと突き刺す威圧感から一刻も早く逃げたい。
そんな衝動と必死に戦い、どうにかして頭を上げていた沙夜は、ふっと目元をゆるませたルウェルディアの凄絶な美貌に打ちのめされる。
威圧感はそのままだったが、あの瞳がまた沙夜を捕らえていた。


逃げたい──けれど近付きたい。
あの人に触れて、すべてを受け入れて、貪り尽くしたい。
そんな欲望が沸々とわいてくるのに絶望を感じながら、沙夜はふらりと一歩を踏み出す。



「ねぇ、真矢の血はとっても甘かったよ。君の──沙夜の血も、彼女みたいに甘いのかな?」



もう少しで沙夜がルウェルディアの腕へと抱かれようとしたとき、その表情は一変した。
甘やかな囁きが真矢、という名を紡いだ瞬間に沙夜の感情が焼き切れたからだ。
真矢──沙夜の母親──はまだ沙夜が小さかったころ、ルウェルディアに殺された。
それだけではない。
彼は、沙夜の父親も、親戚も、兄弟も、すべて殺された。
血を欲していたわけではない。
ただ殺したかったと言う理由だけで、沙夜は肉親をすべて失ったのだ。


真矢という言葉に呼び戻されたのは、幼いころの記憶。
あの時も、こんな雪の降る夜だった。
今と違うのは、視界が赤一色に塗り込められていないことだけ。
ルウェルディアの言葉で忌まわしい記憶を呼び戻されたことによって先ほどの恐怖や欲望はどこかへと行き、 いまや沙夜の心を占めるのはただ怒りのみだった。



「許さない……っ! 私の母様や父様、みんなを殺したおまえだけは……!!」

「ふうん。面白くなってきたね。おいで沙夜、許可をあげる。どこにでもその刃を突き立てていいよ」

「ふざけた真似を……!!」



飛び込んでこようとする沙夜をまるで受け止めるかのように両手を広げた彼の仕草に、沙夜の怒りの感情がさらに膨らむ。
今の沙夜の頭の中にはルウェルディアの胸へと剣を突き立てることしかなかった。
彼の手前で大きく踏み切って飛び込んだ沙夜は怒りにまかせ、剣を大きく振りかぶる。
磨き上げられた白銀色の剣は、違わずルウェルディアの胸を突き刺したはず──だった。



けれど彼の口からは、いつまでたっても断末魔の声も血の筋も流れない。


「うそ……っ、どうして……?!」


確かに刺したはずなのに。
そう沙夜は思ったけれど、実際手元の銀剣は彼の頬を少し掠めていただけだった。
彼は元いた場所から一寸たりとも動いていない。
ならば、手元を狂わせたのは沙夜のほうだ。


──私が、刃筋を誤った?


手元を狂わせたのは、彼への恐怖か彼からの威圧か、それとも。
どれによってにせよ有り得ぬはずの失態に、沙夜は失意と絶望に打ちのめされていた。

そんな沙夜を見て、ルウェルディアは嬉しそうに目を細める。

目の下には沙夜がつけた一筋の赤い線が走っていた。
幾瞬かの後、小さな切り傷からすうっと伝い落ちる血は指で縫い取られたあと、ルウェルディアの舌で舐め取られる。
わざと舐め取るときに立てられた音は沙夜の聴覚を侵し、舌なめずりをした口元は凄絶な色香を放っていた。



「よくできたね、沙夜。俺に血を流させたのは沙夜が初めてだよ。だから──ご褒美をあげる」



ふわり。
彼が身に纏う闇色のフロックコートがはためいたのを視界のはずれで捉えた瞬間、柔らかな吐息のぬくもりが耳朶へとかかる。
動けないでいる沙夜に、蜂蜜のように甘い声音とともに唇へと降ってきたのは柔らかな感触だった。
えもいわれぬ甘美は一瞬だけ感じた背徳に勝り、沙夜からいとも簡単に理性を奪っていく。
永遠にも思えた一瞬が二人の間に流れ、そののち傍らの姿は闇に溶けていくようにそっと消えた。


沙夜がルウェルディアの姿のないことに気づいたのはそれから大分あとのことだった。
いつまでも唇に残る感触に意識を溶かされながら沙夜はぎゅっと短剣の柄を握り締め、彼が消える前に沙夜へと与えたぬくもりを 少しでも消そうとするかのように冷たいそれを胸に掻き抱く。
そうして決意と復讐の色をしっかりと瞳に宿らせ、怒りを含んだ声でつぶやいた。



「絶対に……殺してみせるわよ……!!」



沙夜の誓いを込めた声が雪の降り出した夜空にこだまする。
最後に耳元でささやかれた甘やかな声音は、当分消えてくれそうになかった。




『明後日の晩、またここに来るよ。だから、君はその腕で俺を殺しに来て──……』




それが、優しきヴァンパイアハンターと闇の帝王の初めての邂逅であり、始まりだった。
そして運命の歯車は二人の邂逅を境に少しずつ廻りだすことになる。
すべてを終わらせる、終焉に向かって──。







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