「あの人を殺さないで。身代わりに、私がなるから」
──静寂を切り裂いて降ってきたのは、雪のように白く煌めく白刃。
風に乗って雪片と共に運ばれてきた声は、水晶のように鋭く透き通った啼き声だった。
「あなたは誰」
敢えて分かっている問いかけを、沙夜は彼女に投げかける。
目の前にたつ女性は純白にも見える白銀の髪をなびかせ、すらりと高い体躯を直立させながら、沙夜を見つめていた。
答えようとしない彼女に沙夜がもう一度問いかけると、しばしの逡巡の後に紅色の瞳を揺らして彼女は答えた。
「私の名はリセアヴァンセル・フィリアルミア。私に近しい者はセーヴァと呼ぶ。
称号は──彼を追っていたおまえなら知っているでしょう、闇の狩人」
「やっぱり、あなたは"雪の女王(シエラ・キャロル)"なのね」
雪のような白銀の髪、血のような紅色の瞳、男性にも引けを取らない背の高さの高位ヴァンパイア、
と言えば沙夜にあげられるのは彼女しかいなかった。
そして何より──彼女は彼の助命を願ったから。
「私にあなたを狩る理由はないわ。罪を犯していない高位ヴァンパイアを殺すのは、私たち狩人の規律に反することよ」
「それは分かっている。けれど、それでも私はあの人の助命をおまえに請う」
悲しみに揺れる紅の瞳は、切に彼女の願いの強さを伝えていた。
雪の女王──セーヴァは沙夜が追い続けている、ある一人の高位ヴァンパイアの恋人だと噂されている。
一ヶ月前、沙夜はとうとうその高位ヴァンパイアの足跡を掴んだ。
やっと、復讐を果たせるチャンスがもうすぐ巡ってきそうなのだ。
忌まわしい事件に終止符を打つ、絶好のチャンスが。
だから、彼女の願いを沙夜が叶えることは絶対に有り得ない。
そして──おそらく彼女も、それを分かっていてなお、沙夜の前に姿を現した。
沙夜を殺して、彼を救うために。
「あなたの願いは叶えられない。彼を殺すことが、私の生きてきた理由だから」
きっぱりと沙夜が答えを告げると、セーヴァは長いまつげを伏せてかすかに俯いた。
彼女は知っているのだ。
沙夜が彼に復讐を誓ったわけを。
「ええ。おまえは紫夾(しきょう)一族のたった一人の生き残り。復讐を果たす正当な資格がある。けれど──私にもあの人を守る資格はあるの。
私はあの人にこの命を捧げることを誓ったのだから」
「たとえ理由があっても、攻撃をしてきたなら私には身を守る為にあなたを殺すことが出来る。その覚悟があるなら、
私はあなたと刃を交えましょう」
本当のところ、沙夜は彼女と戦いたくはなかった。
沙夜とセーヴァはきっと似ている。
一途なほどに自分が決めた誓いを守り通し、その為なら死ぬ事だって厭わない。
そんな悲しい運命を持つ自分とセーヴァは、出会いが違えば分かり合えたかもしれないのだ。
けれどこんな形で関わることになった以上お互い退くことは出来なかった。
「もとよりこの命はあの人から与えられたもの。あの人のために戦って無くすのなら惜しくない」
慈しむように自らを腕で抱きしめて目を閉じ、セーヴァは呟いた。
なんて──なんて哀しい女王なんだろう。
人間の感情などとうの昔に捨て去っているはずのヴァンパイアなのに、今の彼女は誰よりも人間らしかった。
けれど沙夜は、だからこそ彼女と対峙しなければならない。
セーヴァが今想っている、誰よりも人間からかけ離れヴァンパイアらしい感情しか持たない悪魔を自らの手で葬るために。
手に握るのは鈍く光を放つ銀剣が二振り。
対するセーヴァの武器は自らの爪と牙それに漆黒の翼のみ。
「悪しき闇を葬るため、紫夾沙夜は狩猟の鐘(ベル)を鳴らす――。闇の狩人(ヴァンパイアハンター)の名の元に……!」
戦いの幕開けを告げる声に、セーヴァは妖艶に微笑んだ。
「さあ、戦を始めましょう。あの人を巡る、私とおまえの戦いを」
終幕は、長き戦いの末に訪れた。
彼岸花が咲き乱れるかのように真紅へと染まる雪の上に、さらりと白銀の髪が流れ落ちる。
もう四肢は動かないと知っていながらも瞳の強さだけは失わない彼女に、沙夜は敬意を込めて跪いた。
「せめて貴方の眠りが安らかなものとなりますように。"雪の女王(シエラ・キャロル)"――リセアヴァンセル・フィリアルミア」
そうして沙夜が落とした一滴の涙に、セーヴァはやはり妖艶に笑った。
「強くなりなさい、沙夜。あの人――ルウェルディア・ラルフローレンを倒せるぐらいに」
「セーヴァ、あなたは彼の命を……」
「ええ。あの人を救えるのは沙夜、おまえしかいないから」
謎かけのように矛盾したことをいうセーヴァに、沙夜は困惑で瞳を揺らした。
いったい、彼女は何を沙夜に伝えたいのだろう。
「あの人は今深い深い闇に囚われている。光となって救い出せるのは沙夜しかいない」
「けれど、わたしは」
「復讐のために生きている。そうでしょう? だから私はおまえに願う。おまえはあの人を救える、たった一人の光だから」
「光――……?」
どんどん血の気が失せていく彼女の肌を気にしながら、沙夜は問いかけた。
自分が、彼の光。
私は彼を殺すために生きているのに、光などになれるはずがない。
なのになぜ、彼女は沙夜を光などというのだろう。
けれどセーヴァは微笑んだだけで、沙夜の問いかけに答えようとはしなかった。
「ああ、そろそろお別れの時間ね、沙夜。いつか真実を知ったとき、必ずおまえは光となる。だから、
それまであの人に殺されたりしないように強くおなり――……」
そうして気高き女王の頭は、静かに地へと落ちた。
安らかな、永久の眠りにつくために。