闇は夜空に君を思う







降りしきる雪の上に散るのは血の色の花弁。
おおよそ彼女がたたずむ場にはふさわしくないその花は、深い真紅に染め上げられた紅薔薇だった。
だが彼女はそんなことはいっさい気にせず、手に持つ五輪の薔薇を冷たい灰色の墓石の上へそっと置く。
それに伴ってパタパタと落ちる滴は積もる雪を溶かし、次々に墓石に白と灰色のまだらを作っていった。


「母さま、父さま、令姉さま、廉、鈴……私よ」


雪に紛れてしまいそうなぐらい小さな声で囁かれたのは、彼女がもっとも愛していた者たちの名。
彼らは十年前、闇の帝王によってその命を奪われた。
残されたのは、沙夜ただ一人だけだった。


どうして自分だけが生き残れたのか、なぜ自分が殺してもらえなかったのかと今でも時々沙夜は思う。
沙夜は家族を殺されてからずっと、憎しみと怒りが生み出す力だけを糧に生きてきた。
確かに憎しみの感情は強く、沙夜に力をもたらしてくれるのだが、同時に強すぎる憎しみは精神をも磨耗させてしまう。
日々、憎しみという名の炎はじわりじわりと沙夜の心の命を削っていく。

もしこの先自分が彼を殺すことができたなら、そのときが自分の命の終わりかもしれない。
手向けた紅薔薇がどんどん降り積もる雪に白く染められていく様を見つめながら、沙夜はぼんやりとそんなことを考えていた。


だから気づかなかった。
もうひとつ、墓地にたたずむ影があることを。







沙夜がしばらくして墓地を去ったあと、その人影はようやく墓前に姿を現した。
漆黒の髪は半ば雪に濡れ、透き通るような白青色の瞳は憂いを帯びていたけれど、彼の持つ凄絶なほどの美貌は少しも欠けてはいない。


闇の帝王──その名をルウェルディア・ラルフローレンという、高位ヴァンパイアの上に君臨する帝王。
彼が命じれば、この世に存在するどのヴァンパイアでもその命に従う。
彼はヴァンパイアにとって至高の存在であり、同時に沙夜にとって憎しみを向けるべき存在だ。
なぜなら彼こそが沙夜の愛する者たちを奪った張本人なのだから。



「沙夜……泣いていたの」



まだかすかに残る墓石の上の雪のまだらをみて、ウェルド──彼をそのような愛称で呼ぶ者はもういなくなってしまったが──はそっと呟いた。
彼女はいつもこの場所でだけ泣く。
昔、闇の意識に侵されたウェルドが沙夜の家族を殺した所為で、彼女はここでしか家族に会えなくなってしまったから。
それを奪ったのは自分、けれどだからこそウェルドは自らを許せない。
額に刻まれた刻印にそっと触れて、鎮めても鎮めても沸き上がる怒りと悔恨にウェルドは目を閉じた。


「こんなもの、俺は望んでいなかったのに……」


ただひとりの人を守りたかった。
その人は人間で、ほかのヴァンパイアたちから守るために力がほしかった。
そのころの自分はただの高位ヴァンパイアの一人でしかなかったから。


けれどその結果、ウェルドは闇の帝王という足枷に、そして呪縛に囚われた。
額に刻まれた闇の刻印は、すべての闇の世界の者たちの上に君臨する帝王であることを示す。
同時に、危険すぎるため本来はある程度は封じられているヴァンパイアの本能──ただ無差別に人の血を浴びるように吸い、 殺すことを愉しむ殺人鬼──を少しずつ、じわりじわりと目覚めさせていく。

そうしてウェルドの意識が完全に本能に取って代わられたとき、完全なる闇の帝王がこの世に現れる。
そうなれば世界は戦乱の渦に巻き込まれ、血の海地獄と化した後にすべての終焉が訪れると言われている。

少し前までのウェルドはそれでもいいと思っていた。
あの人のいない世界に価値なんて見出せなかったから。



薄く雪で覆われた墓石を指でなぞると、刻まれた名前の一つが現れる。


「真矢……」


紫夾真矢──柔らかな茶色の髪をしていて、大きな焦げ茶の瞳をいつも輝かせていたのを覚えている。
高位ヴァンパイアはすべて一人ずつ狩人の監視が付くが、ウェルドの担当だったのが真矢だった。
あまり狩人らしくない彼女はいつも思いもよらないような方法でウェルドをを驚かせ、楽しませた。
自分に“ウェルド”という愛称をつけたのも彼女だ。
ウェルドが真矢に興味を持ち、惹かれていくのにそう時間はかからなかった。
彼女にはほかに好きな人がいて子供もいることは知っていたが、傍にいられるだけで幸せだった。


けれどウェルドが闇の力を手に入れたとき、ささやかな幸せで満足して回っていた歯車はいとも簡単に壊れた。


ウェルドが壊したのだ。
守りたかったはずの人は、闇の帝王の証を刻まれたウェルドに殺された。
思い出したくない記憶──それを辿れば今でも鮮明に思い出せる。


あの日、自分は抗うことのできない衝動に駆られて街を彷徨い、気付けば血塗れた海の中にいた。
ひさしぶりに口にする甘美な血の匂いに酔いしれる中、血の海に倒れる人を見てウェルドは自分の殺した人の正体に気付く。
そのとき、ウェルドは心の壊れる音を知った。

それから絶望を糧に狂気を育てていくのはたやすかった。
闇の望むままに人を殺し、血を貪る。
そのときだけは本能に身を任せ、何も考えないでいられたから。


そんなウェルドの前に狂気の淵から救い出してくれる光が現れたのは、今から少し前のことだった。


それまでにも話だけは知っていたのだが、姿を見たことは一度もなかったし真矢の娘だということも知らなかった。
だから自分に復讐しようとしている娘がいる、と聞いたときは正直またか、という感想ぐらいしか持たなかった。
自分を恨む人の数は自分が殺した人の数だけ居ると知っていたから。


沙夜の名を知ったのは、ウェルドの相方セーヴァが狩られたと聞いたあとだった。
高位ヴァンパイアの中では割と強い方で、おいそれと人間に殺されるほど彼女は弱くなかったから、ウェルドは少し驚いた。
そして彼女を殺した狩人に興味を持ち、仲間を使って情報を集めさせた。
沙夜の名字を知ったときはあの高名なヴァンパイアハンターの一族の生き残りだったのかとその強さに納得したものだ。
もっとも──その一族を滅ぼしたのはウェルドだったのだけれども。


それでもウェルドはまだ沙夜を真矢と結び付けはしなかった。
以前は、紫夾一族抜きにヴァンパイアハンターは語れないといわれるほどにその職業に就く者は多く、 誰にどういう形で恨みを持たれてもおかしくはなかったからだ。
沙夜が真矢の娘だとわかったのは、ほんのささやかな偶然の邂逅を果たしたときだった。



場所はそう──この場所。
真矢の命日、彼女は今日みたいに肩を震わせて静かに涙をこぼしていた。


本当に気まぐれでここを訪れたウェルドはその姿を見て思わず目を疑った。
──真矢が、死んだはずの彼女が墓石の前で泣いていたのだから。
よく見ると髪は真矢とは違う黒だったからすぐ彼女ではないとわかったけれど、それでもしばらくは目が離せなかった。

真矢に生き写しの顔、背の高さまでそっくりの細い肢体。
けれど何よりウェルドに衝撃を与えたのは、沙夜の声だった。
必死で押さえているのだろう嗚咽と泣き声は切れ切れにしか聞こえてはこなかったが、それでも余りに似すぎていた。
髪の色が違っていてもなお、真矢がそこにいるとウェルドが錯覚し続けられるくらいに。



そして、不意に傍らへ佇む人影に気付いた沙夜の焦げ茶の瞳には、真矢と同じように強い光が宿っていた。


彼女が迷いもなく向けた自分への憎しみ──ウェルドは今まで向けられたことがないぐらい強い感情だった。
自分ですら一瞬気圧されたほどのその瞳の強さに、ウェルドは悟った。
自分がもし死ぬとするならきっと彼女の手に掛かって殺されるのだろう、と。


そして、それがいい──そう思った。
死ぬのなら、彼女の手に掛かって死ぬのがいい。
彼女の手で殺されるなら、きっと自分にとってそれは幸せなのだから。



だから、自分は目の前の彼女に死を願おう。
幸せという名の自己満足を満たすために。


そして、もう一度だけぐらいなら守る価値があると思えた世界──沙夜が生きている今の世界を守るために。








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