星光満つる空に叶わぬ願いを







「また……夜が来る」

窓に面するところへ置かれたベッドに座りながら、沙夜はぽつんとつぶやいた。
外を見やると空は茜色に染め上げられていて、今にも日が沈もうとしているところだった。
ゆっくりと少しずつ忍び寄る夜の気配に、沙夜は微かな畏怖を抱く。
ああ、また夜が来てしまったのだと。
もはやそれは沙夜にとって闇の者を狩る時間だけではなくなってしまっていた。
ルウェルディアに命を助けられたあの晩を境に起こった変化――それによって沙夜もまた、闇の住人への一歩を踏み出してしまったのだから。




この頃、昼間に起きているとまるで砂漠の中にいるみたいに息苦しくだるい。
日の光は鋭く暑く感じられ、より涼しく湿ったところを体が求める。
食べ物を食べて満腹になってもどこか喉の渇きに似た飢餓感が残る。
夜になるとなぜか身体と五感の能力が跳ね上がる。
それらの兆候がどういうことを指すのかわからないほど、沙夜の経験は浅くない。
加えて、それがあの夜──ルウェルディアに命を救われたときを境に始まったのだとすれば、自分に何が起こったのかは明瞭だった。


何よりすべてを物語っていたのは、致命傷を一日で治した恐るべき治癒能力。
これこそが一番信じたくない現実をはっきりと沙夜に突きつけていた。
自分は人間とヴァンパイアの狭間にいる者──半女吸血鬼(ヴァムピーラ)であるということ。
そしてそれはルウェルディアの血を以てしてなされたのだということを。


その意味が分からぬほど沙夜は無知でもなかった。
望まぬ経緯で手に入れてしまった、唯一で決定的な能力(ちから)──闇の帝王の生に終止符を打つことの出来るたった一つの可能性。
けれどそれは今まで一番欲していたものだったはずなのに、沙夜は素直に喜ぶことが出来ないでいた。


どうしてなのかはわからない。
今だって、ルウェルディアに復讐したいという気持ち自体は何一つ変わっていないと思う。
なのに、沙夜の心のどこかがその力を使うことを拒否する。
命を助けてもらったのにそれを利用することへの罪悪感か、ただ一時の気の迷いか。
いくら考えてもその答えはさらさらと砂のように手から零れ落ちてしまって、掴むことが出来ない。


自分はどうしたいのだろう。
どうすれば、いいのだろう。


少し前までは自信と確信を持って言い切れていた答えがあったのに、今ではそれが正しいのかさえわからない。


ルウェルディアのことを考えると、真っ先によみがえるのはあのときの彼の声だ。
致命傷を負った自分を必死で呼ぶ声、彼の血で傷が癒えた後に安心したように呟かれた自分の名。
思い出すと、胸の何処かが熱くなるような感覚に陥る。


けれど何より鮮明に残っているのは、彼が沙夜をかき抱いた時に感じたその体温(ぬくもり)だった。
本当なら、ヴァンパイアの体を温かいと思うなどあり得ないことなのに――あのとき沙夜は自分に触れる彼が温かいと思った。
抱かれた腕の中は心地よく安心できた。
自分が殺すべき相手の腕に抱かれたのに、ずっとこのままでいたいと、一瞬でも思ってしまった。
その感情は沙夜にとって許し難く、受け入れたくないことだった。


また同時に、それが沙夜の狩りに出かける足を鈍らせていた。
あの晩から一週間――毎晩のように出かけ、ルウェルディアを探していた日々は一変し、沙夜はずっと自室から出られないままでいる。
夜、外に出てしまえば嫌でもヴァムピーラの能力を認めざるを得ないからということもあるが、理由はそれだけではない。


――ルウェルディアに会うのが怖いのだ。
どんな顔をして会えばいいのか分からない。
きっと、今までのように憎悪だけの感情を向けることはできない。


沙夜はそれが怖かった。
憎悪以外の感情を認めてしまえば、そうして一歩踏み出してしまえば、何かが二度と取り返しのつかないことになるかもしれないという直感があったから。







気づけばすっかり夜の帳が世界を覆い、夜空には燦然と星々が煌いていた。
明かりをつけていない部屋には微かな月光のみが光を落とし、傍らに置いてある沙夜のナイフがきらりとその光を跳ね返す。


「ルウェルディアは敵よ……憎むべき相手なのよ……ちょっと命を助けられたからって、気を許してんじゃないわよ……!!」


顔を歪めてそう叫んだ沙夜は、勢いよく壁を叩いた。
半ば自分に言い聞かせるようなその言葉は、尻すぼみになって部屋へと消えていく。
うまく抑えられない感情のやり場をどうすることもできなくて、ずるずると壁にもたれるようにして沙夜は大きく息を吐いた。


「あなたはどうして私を助けたの……私はあなたを殺したがってる女よ? 力を手に入れたらあなたを殺すかもしれないのよ? なのに、どうして……っ!」


ぱたり、と一滴の涙が目から零れる。
わからない、わからない。
自分の気持ちも、ルウェルディアが自分を助けた意図も。
どうすればいいのか分からない――。


止まることを知らない涙は沙夜の衣服を、シーツを濡らしていく。
けれどそれにはかまわず、沙夜は泣き続けた。
ルウェルディアに抱く感情も、訳の分からない苦しさも、自分の弱さも――全てを涙が洗い流してくれればいいのに。
そんな叶わぬ願いを抱きながら、沙夜は静かに涙を零し続けていたのだった。





*          *          *          *





ふわり、と。
重たい闇の気配が部屋に舞い込んだのは夜更けのことだった。
細心の注意を払って近づいた闇は傾いた月の光に照らされて眠る少女を起こさぬよう、その傍らにそっと腰を下ろす。
顔にかかる髪をそっとかき上げてやれば、その下からはすっかり泣き濡れて冷たくなった肌がのぞいた。


「沙夜……」


闇が紡いだその名には限りない憂いと慈しみが込められている。
自分の我侭な願いのために、更なる苦しみを負わせてしまった少女。


彼女が泣いていたのは間違いなく自分の所為だろう。
それでも自分はどうしてやることもできない。
いっそ全てから解き放ってやりたかったが、それだけはできなかった。
彼女は、自分のたった一つの希望だったから。


「沙夜……すまない……」


自分にできることは、彼女に謝ることぐらいだ。
本当は彼女の望む物なら何もかもを与えてやりたいのに、それすらできない。
自分が上げられるものは、彼女にとって苦痛と悲しみでしかないのだから。
ふ、と自嘲するように笑った闇は、深い眠りの中にいる少女を見つめ、そっとその額に軽い口付けを落とした。


許して欲しい、とは言わない。
自分が彼女にしてきたことは、決して許されることではないと分かっている。
それでも、願わくは憎しみ以外の感情をすこしでも自分に抱いてくれたなら、と思ってしまう自分がいる。
そんなことは絶対ありえない、そう分かっていたけれど。


呆れた自分の願いに嘆息しつつ、そっと立ち上がる。
慈しむように二度、三度と少女の頭を撫でてから、現れたときと同じように闇は解けて消えるようにその姿を消したのだった。




*          *          *          *




少しずつ変化していく運命に夜は流されるのか抗うのか。
願いの狭間でゆれる闇はどの運命を掴むのか。
訪れる終焉は望む望まないに関わらず、ゆっくりと確実に手繰り寄せられていく。

喜ぶ者がいる裏には必ず悲しむ者がいる。
生を掴む者がいれば死を選ぶ者がいる。
完全なる終焉などありはしない。

それでも自らの安寧と安息の地を求め、人は終焉を望む。
そうして愚かなる願いは繰り返されるのだ。
望まざる終焉を引き寄せられた、その者の手によって。








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