緋き夜に闇は甘く嗤う







ふと見上げた月は、鮮やかな緋い色をしていた。
緋い月は人を狂わせる──そういっていたのは誰だっただろうか。
一つ訂正しておくとすれば、緋月が狂わせるのは決して人だけではない。


見てしまってからあわてて目をそらしても、もう遅かった。
月光に反応してあっという間に沸き立った血は体中を熱くさせ、何も考えられなくさせた。


「──……っ、だ、めだ……っ」


みしみしと思考回路を侵していく、どす黒い感情。
狂気はあっという間にルウェルディアの心を奪い取ってしまう。
しばらくして顔を上げ、闇夜の中月を見上げてうっそりと嗤ったのは、もはや自分ではない自分──ただ殺戮だけを好み、 血を欲する吸血鬼の本能のみで動く、世界に破滅をもたらす闇の帝王だった。
くつくつとのどを鳴らして嗤う声が部屋に響く。
体の中からわき起こる欲望に目を細め、ルウェルディアは深く嘆息した。


ああ、血がほしい。
耳を突き刺す心地よい悲鳴を聞いて、柔らかな肉を爪で引き裂き、浴びるように血を飲みたい。
甘い甘い、若い女の血──殊更に甘い血が飲みたいのだ。
たとえば、近づくだけでその甘い芳香に理性を失いそうになるほどに、魅惑的で強力な力を持つ血。
そんな極上の血を、体は欲している。

自分はそんな血に一度しか巡り会ったことはない。
けれど、その娘はどうなのだろうか。
夜毎、自分に戦いを挑んできていた、狩人の娘──紫夾沙夜。
まだ男を知らない生娘の血は、特に甘い。
もしかしたら、母親よりも甘美な味かもしれない。
男を知った女の蠱惑的な味覚も捨てがたいが、今はさらりとした甘露を楽しみたい気分だった。

──なのに。


「あの娘……なぜ姿を見せない。以前はあれほど私に挑んできたというのに……」


二週間ほど前からぱったり姿を見せなくなってしまった娘。
ルウェルディア自ら血を流し込んで傷を癒してやったのだから、もうとっくに動けるはずだ。
けれどいつまでたっても娘はルウェルディアの前へ現れない。
まるで、彼女の血を欲するルウェルディアの思考を読んで、逃げたかのように。


「……沙夜。はやく──早く私のところへ来い。その血が、おまえの血が飲みたいのだよ……」


低く歌うように言われた言葉はとろけるように甘い。
海の中へ水夫たちを誘い込むセイレーンの歌声さながらに魅惑的なその声音は、どんな相手ですらルウェルディアが望めば腕の中へと誘うことができる。
たとえ、彼が望むのが半女吸血鬼──ヴァムピーラと呼ばれる者であったとしても。
ふつうのヴァンパイアであれば彼女たちのような者の血は毒となる。
間違って飲み干せば、死ぬのは彼らでなく自分たちだ。
ただしそれは、闇の帝王であるルウェルディアをのぞけば、の話だった。
自分にはどんな毒も、武器も効かない。

闇の帝王は、誰にも殺せない。


「小癪な娘よ。おまえがこちらへ来ないのならば、私から直々に会いに行ってやろうか……!」


紅い月光に照らし出された冷たい石造りの部屋に、ただ嗤う声が響く。
その声は、どこまでも楽しげで、冷徹なものでしかなかった。
城中の生き物が思わず身を凍りつかせてしまいそうな声音は、絶対的な王者が高みで弱者と愚者を見下ろして嗤うそれだ。
しかしながら、ときおりそれになぜか少しだけ苦痛らしきものも混じることもあった。
それが明確に内からの抵抗へ抗う声へと変わったのは、緋月がふと雲に隠されて地上が闇に包まれた瞬間だった。


「ぐ──……っ、う、なぜだ、なぜ邪魔をする……っ! 私はおまえだ、邪魔立てすることは許さぬ──ぁ、あぐ、お、あぁ……ッ」


胸のあたりの衣服をつかみ、脂汗を額に浮かべて、ルウェルディアは必死で何かに抵抗するかのようにうめき声を上げた。
二つの感情が胸のうちで吹き荒れ拮抗する苦痛に顔をゆがめ、荒い息を繰り返す。
しばらくして、ようやく己の中に飼う化け物に打ち勝ったルウェルディアはやっと深い息をひとつ、吐きだした。
ぐったりと目を閉じて頭に壁にもたせかけた彼の顔に、先ほどまで浮かんでいた狂気の色はどこにもない。
まだぐらぐらと熱い頭を少しばかり冷やしてくれるのは、窓から吹き込んでくる冷たい冬の木枯らしだ。
その心地よさに、ルウェルディアは知らず知らずのうちにほう、と息を吐いた。

白くけぶる息の先にぼんやりと見える、雲に隠れてもなお薄暗い光を放つ月。
もはやその色は緋に染まってはおらず、ルウェルディアの中に眠る狂気を引き出す力は弱まっていたけれど、気は抜けなかった。
こういう夜はすぐ、先程のように化け物が顔をのぞかせるのだ──今しがたまで自分の心を乗っ取っていた、忌まわしき闇の狂気が。
そしてルウェルディアが狂気に乗っ取られ、自らを失するときは日毎夜毎に増えていた。
もう、自分に残された時間──自分が自分でいられる時間が少ないことには、薄々気づいている。

だから、どうか……どうか早く。
早くしないと、手遅れになってしまう。


「……雪……?」


ふと鼻先をかすめた白いモノに空を見上げると、いつの間にか空は濃い灰色の雲に覆われはじめていた。
まるで舞うようにはらはら落ちていく雪を眺めながら、あの夜を境に自分の前へ姿を現さなくなった少女を想ってルウェルディアは言葉を零す。


「沙夜……どうして、どうして俺を殺しにきてくれないの……」


見上げる空は濃灰に塗り込められていて、ただでさえ浮かない気分がさらに沈む。
どうか。どうか、早く。


「……お願い、早く俺を殺して。でないと俺は──……」


俺は、きっと君を。

その続きはどうしても言うことが出来なくて、ルウェルディアは言葉を飲み込む。
全部言葉にしてしまったらそれが現実になってしまいそうで、とても怖かった。
そうして、自分のことすらどうすることも出来ない自分の無力さに、深く絶望させられた。
自分は、自らの命すら自由に扱うことが出来ない。
死にたい、そう望んでいても、絶対に死ぬことは出来ないのだ。
やがてこの手で世界を滅ぼしてしまうとわかっていても、たった一つの希望すら簡単に握りつぶしてしまえるのだとわかっていても。
何も、出来ない。
それがどれほどの絶望なのか、ルウェルディアは嫌というほど知っている。
だからこそ、同時に夢を見ずにはいられなかった──彼女が手ずから、自分を殺してくれる夢を。


願わくば、自分に安寧の死を。
――そして彼女が生きる世界が、これからも末永く存続していられますように。


叶うはずも無い、願い。
けれど、だからこそ望んでしまう、ただひとつの夢。


「沙夜……」


いくつもの感情が込められて呟かれたその名は、白い吐息と共に闇の中へと消えていった。








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