──とても、大切な人にもらったの。だから……




夜は真白の月に微笑んで





リイイィィ──……ン


ひどく物悲しげな音が闇に支配された部屋の空気を震わせる。
薄く堅い金属同士がぶつかり合って響き合う音に似たそれは、まるで何かを欲しがるかのようにか細く鳴き続けた。
今日何度目になるかわからないその鳴き声に、沙夜はすっと目を細め、窓の外の白い月を見つめる。


指に触れるのは、金属質の冷たい感触。
美しい細工の施された銀の柄の中心には、十字型に大小いくつもの真珠がはめ込まれている。
沙夜と共にいくつもの死線をくぐり抜けたその短剣はそれでもなお、その切れ味をなくすことはない。
それどころかヴァンパイアの血を吸うごとに切れ味は増してさえいるように思える。
哀しげに刀身を震わせて鳴くそれは、今も昔も変わらず唯一無二の相棒だった。
ようやく昇り始めた月の淡い光を受けて白く鈍い光を放つ刃先に、沙夜はそっと指を滑らせる。
鋭い痛みと同時に、指から滴る紅い血が銀の刃を濡らした。
無表情のまま月から目をそらして視線を下に落とし、血の落ちる様をしばしの間見つめる。
そののち、少しだけ指を高くあげて刃の上にかざすと、迷い無く刃に落とされた鮮血はまるで刃がそれを吸っているかのようにゆっくりと消えていく。
ただの一滴もその血は零されること無く、短剣に吸い込まれていった。



いつまでそれは続けられていただろうか。
月が空高く昇り、あたりを煌々と照らし始めた頃、ようやく沙夜は血の滴る手を短剣の上へかざすのをやめた。



「……ご満悦かしら、ブランカ」



短いため息と共に零された言葉は誰もいない部屋に響く。
それでも沙夜は答える者がいるかのように、その答えを待つ。
しばらくして──まるで沙夜の言葉に応えたかのごとく、短剣が二度力強く脈動を打った。



「飲み足りないとは言わせないわよ。あなたには昨日もヴァンパイアの血を吸わせてあげたでしょう」



沙夜の言葉に不満を表すかのように小刻みに脈動を打っていた短剣──ブランカと呼ばれたその剣は、やがて一つ大きく刃を震わせて鳴動するとそれっきり静かになった。
ようやく短剣が鎮まったのを見て、沙夜は安堵の息をついた。
頭が少しくらくらするのは、ブランカに血を与えすぎた所為かもしれない。
柔らかいソファーの背もたれに倒れ込むように身をゆだねると、少しだけ気分が楽になった。




「──あんまり剣の我が侭に応えてると、命まで取られるぞっつってんだろ」


不意に響いたのは、まだ幼い少年の声。
顔を上げるのもまだるっこしいが、そんなことをせずとも誰がきたのかすぐにわかる。


「いつになったらあなたはドアの場所を覚えるんですか」
「いやー、すぐ忘れるんだなコレが」
「……いい加減まともに入ってきて下さい」


窓辺に行儀悪く座り、ニカッと笑うのは沙夜とそう年の変わらない男。
月の光をはじく金髪が暗闇に慣れた目には少しまぶしく感じられる。
我が侭な短剣の次はこの男か。
もっとも、登場の仕方からすれば侵入者の方が当てはまるかもしれないけれど。
全く今日はどうして、沙夜の頭を痛くさせることばかり起きるのだろう。
とはいっても、窓に腰掛けてケラケラ笑う金髪男には何かと世話になっているので、そうそう無碍にもできないのが悔しい。



「今日は何しにきたんですか、師匠」
「……おまえなー、わざと嫌がらせしてるだろ」
「わざわざ敬意を込めて呼んであげてるのに、嫌がらせだなんてとんでもありません」
「……あげてる、っつった時点で上から目線なんだよ」
「それは失礼しました、師匠」



ことさら師匠、の部分を強調すると、男は顔をしかめてそっぽを向いた。
幼い外見とは裏腹に沙夜の三倍は生きているくせに、敬語を使われたり師匠と呼ばれることをこの男はひどく嫌がるのだ。


「……わかったわよ。ちゃんと名前で呼べばいいんでしょう、吾鳥(アトリ)」
「最初からそう呼んどけ、バカ」


そっぽを向いてむくれたまま男が呟く。
全くこの男は精神年齢すら外見に等しいかそれ以下なのでは、と思わせるやりとりに頭を抱えたくなったが、いつものことなので全面的に気にしないことにする。
このくらいでいちいちめげていたら、吾鳥とは付き合ってなどいられない。


真代吾鳥(ましろあとり)──どこか飄々とした雰囲気すら纏う少年は、沙夜の友人であり師匠と言える存在だ。
一月前、ある日をきっかけにヴァンパイアの世界へ足を半分突っ込むこととなり、途方に暮れていた沙夜に生きる術を教えてくれたのが吾鳥だった。
言わば、沙夜の恩人かもしれない。
そうして十年前と全く変わらない顔ですねた顔を見せる彼も、もちろん半分ヴァンパイアの世界に身を置く者であり、沙夜と同じくヴァンパイアを狩る者だ。
吾鳥は先達者として沙夜に生き方のすべてを叩き込み、ヴァンパイアハンターの中でも異端者である半ヴァンパイアたちのハンター技術と知識を授けてくれた。


――沙夜の目的が、ただ一人のヴァンパイアに復讐することだと知った上で。



「……沙夜。決心はついたか」



吾鳥の表情が一変する。
先ほどとは打って変わった低い声は、その問いかけの重要さを伝えていた。


何の決心か、などと問われるまでも無い。
吾鳥に導かれるままにこの剣の扱い方を学び、ヴァンパイアの血液を口にすることのおぞましさをねじ伏せ、半分血を分けた同胞の狩り方を身に着けて。
ただそのためだけに、今日まで生きてきた。
特に、生きるために必要であるとはいえ、ヴァンパイアの血を口にすることは今でも慣れない。
たとえ、それを飲むことでしか命をつなぐことが出来なくても、だ。
それでも、沙夜は生き延びなければならない。
彼を――ヴァンパイアの頂点に君臨する闇の帝王、ルウェルディアの命を奪うために。



「見つけたの?」
「そんなモン、お前が仲間入りする前からとっくに見つけてる。あちこち派手な痕跡残しまくってる上に、かなり目立つ容貌だからな」
「……今、何処にいるの」
「ここから二つ離れた西の町だ。意外と近いぞ」
「……そう」
「それだけじゃない。最近はなぜか仲間をほとんど連れてないらしくてな、ほぼ単独で動いている」
「…………」



興味があるのか無いのか、それすら曖昧に感じさせる沙夜の反応を見て、吾鳥はすうっと目を細めた。
無表情なまま唇を真横に引き結んだ彼を見上げて、取り繕うように微笑を浮かべてみる。
が、射るような視線を向けられて、貼り付けた淡い笑みさえ消えてしまう。
逃げ場すら無くなってしまった沙夜は、仕方なく口を開いた。



「――わかってるわ。私が生きてきた理由はただそれだけだもの。絶好のチャンス、よね」
「いったいどうしてお前はためらうんだ。躊躇することなんてこれっぽっちも無いだろう。あいつを殺せたら、お前は親の敵も討てるし、人間にも戻れるんだぞ」
「ええ、そうね。いいことずくめだわ。倒せたら、の話だけど」
「お前になら倒せるさ。それだけの技術を叩き込んだ」
「さあ、それはどうかしら」



首をすくめて視線をそらし、わざと軽い口調で言う。
自分でもわかってはいるのだ。
理解しているのだけれども。


――どうして、ためらってしまうんだろう。


両親を、きょうだいを殺した彼が憎い。
彼を殺したい、殺さなければいけない。
その感情の裏でうごめく、相反するもの。
いったいそれは、何。



「……ここから二つ離れた西の町、ね。わかったわ」
「――行くのか」
「行けと言ったのは吾鳥でしょう。どっちにしろ毎晩ブランカに血を飲ませないといけないし、行くわよ」



あっさりそう言い放った沙夜に、吾鳥は拍子抜けした表情を隠せないようだった。
どちらにしろ、動かないとこの状況は変わらない。
訳の分からない感情にがんじがらめになるよりは、実際に彼に対峙してみたほうがいい、と思った。
そうすれば、なぜためらってしまうのか、その理由が分かるかもしれないから。






「……あまりその剣を甘やかすなといったのを忘れるなよ」


しばしその場を沈黙が支配したあと。
来たときと同じように窓枠に足をかけた吾鳥はためらった後にそう言った。
ドアから帰ろうという考えを全く持とうとしない男に苦笑しながら、沙夜は笑ってその言葉に答えた。


「分かってるわよ。我が侭をききすぎたら命まで奪われる、のよね」
「力を蓄えすぎた剣は、主の命まで奪おうとする。それはヴァンパイアを殺すために生まれた武器だ。お前の血を飲ませている以上、そいつが一番に欲するのは お前の血だからな。よーく覚えとけ」


いったい何度目になるだろうか分からない、警告。
人間の時の沙夜には全く必要なかった知識のひとつだ。

ブランカ――白、というあまり似合わない銘をもらっているこの短剣はヴァンパイアの血を吸って力を増す。
普通の人間が持てばその能力は発動することなく、ただの剣でしかない。
けれど、半ヴァンパイアが持つときのみ秘められた剣の能力が目覚め、夜な夜なヴァンパイアの血を求めて鳴くようになる。
触れるだけでヴァンパイアにダメージを与えることの出来るブランカを沙夜が持つためには、自らの血を与えなければならない。
悪趣味なことに半ヴァンパイアの血を一番好むこの剣を持ち、その力を使うことと引き換えに、血を飲ませててやるのだ。
それはさながら妖剣と交わす契約ともいえるもの。
契約はあくまで対等な立場で行われるように注意しなければならない。
過ぎた力を持った剣に喰われた半ヴァンパイアハンターの話は、いやというほど吾鳥から聞いたから。



「よーく覚えておきます、吾鳥師匠」
「だからそれはやめろって言ってんだろーが……」
「大丈夫よ。目的を果たすまでは、何があっても死なないから」
「……おう」


最後に安心したように笑いながら窓から身をひらめかせた吾鳥は、するりと闇の中へ消えていった。




*           *           *           *           *




「じゃ、行きましょうか。――ブランカ」
吾鳥が訪れた次の晩の、夜の帳が下りてすぐ。
闇に溶け込む漆黒の衣装に身を包んだ沙夜はそう呟いて、鈍い白の輝きを放つ短剣を取り上げた。
誰を狩りに行くのかわかっているのか、ブランカは歓喜の鳴き声をあげて空気を振るわせた後、素直に手へとおさまった。
いつもなら沙夜の血を与えた後でないと反抗してみせるのに、なんと聞き分けのいいことだろう。
胸の辺りまである髪を後ろでひとつにくくり、懐に短剣を入れる。
そうして部屋を出て行こうとしたところで、ふとひとつ思いついたことがあった。


――たしか、あれは棚の一番上にしまっていたはず。


あいまいな記憶を頼りに少ない身の回りのものを入れている棚の引き出しを引くと、無造作に転がしてあったそれは簡単に見つかった。
指でつまんで上へかざすと、窓から差し込む月の光を弾いて白く輝く。
まるでブランカの柄飾りと対で作られたようにそっくりな、純白の十字架(ロザリオ)。
細かな銀細工の上には、空に浮かぶ白月をそのままはめ込んだみたいに綺麗な光を放つムーンストーンが並び、十字を形作っている。
ブランカと共に母から受け継いだ、数の少ない家族の形見のひとつだ。
しばらくゆらゆらと揺れる十字架を見つめていた沙夜の耳に、ふと母の言葉がよみがえる。



――とても、大切な人にもらったの。だから……


「きっとあなたの身を護ってくれるはず……、ね」



ヴァンパイアに十字架やニンニクなんて利かないことは、ヴァンパイアハンターなら誰でも知っている。
それでもなんとなく、身につけて行きたくなった。
ただそれだけの、単なる気まぐれ。
ずいぶんと小さなころにもらった贈り物だったから、それをもらった時の記憶はおぼろげで曖昧なものしかない。
だから、沙夜は母がどんな想いでそれを託したかなんて考えることもなかったし、知る由も無かった。

ましてやそれが、誰から送られたものなのか、などは。



――それを知ることになるのは、もう少しあとの話。





*           *           *           *           *




白き十字架と短剣を胸に抱き、少女は夜の街を駆ける。
ただひたすらに、孤独と絶望を背負う闇の帝王のもとへ。
再び少女と青年の物語が交差するとき、紡がれる物語は果たして希望か絶望か。
複雑に絡み合う呪縛の鎖はじわじわと二人を絡めとり、終焉と導いていく。
気まぐれな運命は何処までも彼らを翻弄し、更なる闇へと誘うだろう。


そうして、世界を覆う闇は少しずつ色を濃くしていくのだ。








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