「驚かせてすまなかった。大丈夫か?」
気遣わしげにそう問いかけて手をさしだす男の手につかまり、素直に助け起こしてもらう。
大丈夫、とどこか遠くで言う自分の声を聞いてリリスは我に返った。
やがてゆっくりと自分のおかれた状況を理解する。
「あ、なたが、私をここに……?」
先ほどまで忘れていた驚きと恐怖に震えた声が問えたのはそれだけだった。
およそ山賊というには程遠い身なりのいい服と、どちらかといえば細身の体躯。
肩まで伸ばした髪はさらりと後ろへ流されている。
リリスを助け起こし、自分も立ち上がった男は夕方襲ってきた山賊とはあまりにも違う容姿と身なりをしていた。
けれど、それは決して安心できる材料にはなり得なかった。
「俺が運んだ。山賊に気絶させられてどこかへ連れて行かれるみたいだったから助けたんだが、余計なお世話だったか?」
「助けて、くれたの……?」
「ああ、そうだ」
男の簡潔な言葉に、リリスは体の力を抜く。
全身を支配していた恐怖から解放されて思わずペタンと床にしゃがみこむと、男は怖がらせてすまなかったと詫びた。
「一部始終を見ていた。山賊のよく使う抜け道にいたから最初は仲間割れかと思ったが、あまりにも必死で逃げていたんで違うと気付いた」
「山賊の抜け道? そんなはずないわ。あそこは山賊が出ないって教えてもらった道だもの」
「それは騙されている。大方王都の市場にいくつか店を出している山賊と手を結ぶ商人の口車に乗せられたってところだろう」
「そんな……」
「よくある手口だ。幾軒かの店を回っている客に同じ噂を吹き込み、不安を煽る。
最初は気にしなかった客も、何度もおんなじことを言われると不安になるから、山賊に襲われない方法はないかと店主に問う。
すると店主は嘘を教えて山賊の出る道へ行くように勧める」
「そうして捕まえた旅人の身包みをはいで、山賊は商人と山分けするってわけ?」
信じられないといった表情のリリスの問いに男は頷く。
その答えにリリスはがっくりと落ち込んだ。
まさか、まんまと騙されていたなんて。
「商人の嘘と真を見分けるのは難しい。よくあることだ、気にするな」
「気にするわよぅ……」
あまり慰めにならないような台詞に余計脱力しながらリリスはそう呟いた。
それでも精一杯自分を励ましてくれているのだろう、男は少し困った顔をしながら俺も引っかかったことがあるから、と付け加えた。
その言葉に、リリスの落ち込んだ気分が少しだけ浮上する。
引っかかったのは自分だけじゃないんだ。
そう思うとちょっとだけ安心できた。
「やっと笑った」
優しい声にうつむいていた顔を上げるといつの間に座ったのだろうか、すぐそばに同じ目線で安心したような男の顔があった。
びっくりした顔のリリスに、少しぶっきらぼうだけれど優しい声音で男は続ける。
「今までまったく笑わなかった上にずいぶん俺が怖がらせたようだったから、心配していた」
「それはあなたが何者かわからなかったから……って、私あなたに足払いをしたのよね、ごっ、ごめんなさいっ!」
自分の言葉にリリスは先ほどの男へ対する仕打ちを思い出し、思わず頭を抱えたくなった。
自分を山賊から助けてくれた人が心配して伸ばした手を払いのけた上に、足払いまでかけるとは。
失礼全般、恩知らずもいいところだ。
「いや、いい。何も知らずに寝かされていたうえに知らない男がいきなり小屋に入ってきたら誰だって怖がるだろう。
もっとも、足払いをかけるやつはそうそういないだろうが」
くっくっく、と男の口から漏れる笑い声にリリスは大人気なくむくれた。
悪かったとは思っている。
だから謝ったのに、まさか笑われるなんて。
「悪かった、悪かったからそんなに俺を睨むな」
「にらんでないわよ」
「もう笑わないから、機嫌を直してくれ」
「本当に? 笑わない?」
「ああ、笑わん」
「じゃあ、いいわ」
なかなか笑いやまない男にへそを曲げたリリスがむくれたのを見て、謝ってもらっていたはずの男はいつの間にか形勢逆転で謝る羽目になっていた。
なかなか機嫌を直さないリリスに手を焼きつつ、男が二度三度謝るとやっとリリスはふくれっつらをやめる。
このやり取りにリリスはどこかしら懐かしさを覚えた。
素直に自分の感情をさらけ出してしまえる気安さ。
軽口のやり取りをしながら、会話をする楽しさ。
少し考えてからそれが伯父とのやり取りによく似ていたことに思い当たる。
その所為で伯父のことまで思い出してしまい、せっかく少し浮上した気分がまたもや深く沈みこんでいくのが自分でもわかった。
否が応でも今まで考えないようにしていたことに胸の中が占領されていく。
きりきりと痛み出す胸に舞い込んだ寂寥感をもてあましてリリスは再び顔をうつむけた。
今度は、目にたまった涙を男に悟られないために。
「どうした?」
「……なっ、なんでもないの……!」
再びうつむいてしまった自分を気遣う男の優しい声が身に沁みる。
ここで泣いたら絶対変に思われる。
そう思うのに、涙は止まらない。
一粒、二粒床に転がり落ちた涙を見て、それが限界だった。
次々あふれてくる涙に視界がゆがむ。
父にあれほど言われた時だって大丈夫だった。
悲しかったけれど、泣かずにいられた。
なのにいまさら泣いてしまうなんて、自分はどうしてしまったんだろう。
知らない人の前なのに。
さっき、知り合ったばかりの人なのに。
なのに、どうしてこの人の声はこんなにも私を泣きたい気持ちにさせるの。
「俺に笑われたのが、そんなにいやだったのか?! それともさっきのことが怖かったからか?! そ、それなら本当に悪かった。
悪かったからもう泣くんじゃ……え? 違うのか?」
自分が泣かせたと思っておろおろしだす男に、まだ自分に残されていたわずかな余裕を全部かき集めてリリスはぶんぶんと首を振る
その様子にどうにか男の所為でないのはわかってもらえたようだったが、人のことを気にしていられたのもそこまでだった。
必死で嗚咽を抑えようとするのにあとからあとから泣き声はみっともなく喉からしぼりだされ、涙は手や床に終わりの見えない冷たい雨を降らせる。
寂しい、もう一度会いたい、私を助けて。
そうつぶやく声は嗚咽に半ばかき消されて、もう自分の声ではないみたいだった。
伯父にもう一度会いたい。
会って、父の話は嘘なんだと否定して欲しい。
どうか、自分を拒絶しないで欲しい。
自分は孤独ではないのだと、そう証明して欲しい。
そうでないと、自分がこの世界にい続ける価値はなくなってしまうから。
誰も必要としてくれないなら、自分のいる意味はなくなってしまうから。
「今は俺がいてやる、だからもう泣くな」
不意に頭に載せられた温かさと言葉にリリスは泣きじゃくりながら前の男を見上げた。
涙でゆがんだ男の表情はわからなかったけれど、まるで壊れ物を扱うみたいにおっかなびっくり、それでも確かな温かさを持って頭をなでる手にリリスは安堵を覚えた。
もう泣かないでいいと自分をなだめるようにゆっくり撫でる手が心地よくて、リリスは知らず知らずのうちに男のほうへと身を寄せる。
男はそれを拒もうとはせず、優しくリリスを抱きしめた。
自分を閉じ込める腕の力の強さと体を包み込む温かさに、言いようのない安心感に包まれる。
あやすようにゆっくりと語りかける声音は誰よりも優しかった。
泣き疲れたリリスの嗚咽はいつの間にかやんでいた。
だんだんと意識に紗がかかっていき、夢と現の区別のつかなくなっていたリリスは自分を抱きしめるぬくもりに身を委ねる。
やがて誘われるように意識は眠りの淵へと落ちていった。