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四章  四つの想いは夜空に交わる 【2】



「それで、ここはどこ? へパティカ……なのよね?」

 窓の外に広がる、見慣れない景色を見てリリスはそう問いかけた。外の薄暗い路地に所狭しと平屋建ての建物が立ち並ぶ。道には覇気のない少年やぼろぼろの服を着た老人がうろついたり、壁にもたれて座ったりしていた。日はもうすでに高く上っていたが、町はどこか薄暗い。いつも賑やか過ぎるくらいの喧騒に包まれているヘパティカしか知らないリリスが不思議に思うのも無理はないほど、 町は静かで陰鬱な雰囲気を漂わせていた。

「ここはダウンタウンと呼ばれている地域だ。お前が疑うのもわかるが、ここもれっきとしたへパティカだ」
「ダウンタウン……?」
「知らないのか? どこの都市にも必ずあるものだが。 行く当てのない貧しいものや孤児たちがつつましく身を寄せ合って生きている場所をダウンタウンと呼ぶ。ただ、無法地帯ゆえに治安はかなり悪い」
「そうなの……」

 ここではおろか王都ですら見たこともない場所の存在をはじめて知り、その存在理由を知ったリリスは衝撃を受けた。見るからに衛生状態の悪い場所で暮らすしかない人たち。犯罪と隣りあわせで怯えて暮らすしかなく、明日の食べ物さえままならない生活を送る人々。そんな世界があるなんて知らなかった。自分がどれほど狭い世界で育てられてきたのかと言うことを改めて知らされたリリスだったが、そこであるひとつの疑問に気付く。

「ねえ、だったらどうしてこんなところに宿があるの? ここに来る人は宿にとまるお金なんてないでしょう?」
「ああ。生活するのにすら困る人々が多いからな」
「なのにここに宿を作る意味ってどこにあるのかしら?」

 そう問いかけたリリスはこちらを少し面白そうに見つめる瞳に気付いた。何か変な質問をしたのかしら、と思いつつも男の返事を待つ。男はリリスの質問に一つ頷いてから言葉を続けた。

「お金があるのにここに来るやつはまずいない。金があればたいていは身包みをはがれて終わりだからな。 だからまともなやつはここへ近づこうとはしない。だが、誰も来ないと言うことにメリットを見出す者もいるとは思わないか?」
「訳アリの人が身を隠すのに便利、ってこと?」
「まぁ、そういうことだな」

 まさかそんな利点があったらなんて、とリリスは納得した。確かに、この容姿ではそうそう街中を歩けないだろう。ほかのところならまだともかく、特に今このへパティカでは青の妖魔がどこそこに出た、何人殺したと散々騒がれているのだから。

「しかし、お前までここに連れてきてしまって悪かった。お前の泊まっていた宿に運ぼうと思ったが、あそこはほかの宿に比べて特に魔法使いが多い。 仕方なくここにつれてきたんだが……あまり休めなかったのではないか?」
「そんなことないわ。ちゃんと休めたわよ。ほら、もう全然大丈夫!」
「おい、すぐに立っては……」
「え……きゃっ!」

 大丈夫だと言いたくて、リリスはベッドのふちから勢いよく立ち上がって見せた。だが慌てた男の声を聞くと同時に視界がゆらりと揺れ、急に暗くなる。とっさに近くのものをつかもうとするが、その手はむなしく空を切った。倒れる――そう思って目をつぶったリリスは、急に力強い腕に引き寄せられ、何とか倒れるのを防ぐことに成功する。恐る恐る目を開けてみると、近くにあったのは心配そうな男の顔だった。

「大丈夫か?」
「ええ……あの、ありがとう……」
「すぐに立ってはだめだ。まだ昨日の魔力消費のダメージが大きいのだろうから。こんなところですまないが、もう少しだけ寝ておいたほうがいい」
「でも……」

 早く帰らないと宿の主人が心配するかも、そう言いかけたリリスの言葉は心配そうな男の顔を見て、言うに言えなくなった。そうして同時に申し訳なさそうな表情をした男は言葉を継ぐ。

「お前は魔力を渡すのが最初なのに無理をさせて悪かった。本当はあんなに食……もらうつもりはなかったんだが……その、あまりに美味くてな……」
「え?」
「とにかく、悪かった。お前が元の体調に戻るまではきちんと世話をするから、それまではここにいてくれないか」

 謝罪する声がどんどん小さくなり、最後は聞き取れなくなる。その言葉にリリスが聞き返したが、男はうろたえた表情をして教えてはくれなかった。結局聞けずじまいになってしまった言葉を気にしながらも、リリスは宿で休むことを承諾した。

「そうか、すまないな」
「いいえ。こちらこそごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまって……」
「巻き込んだのはこっちだ。お前が謝ることはない。少ししたら食事を持ってくるから、それまでここで横になっているといい」
「……そうするわ。ありがとう」

 お礼を言ったリリスに優しく微笑み、男は背を向けて部屋を出ていこうとする。その後姿に、リリスはずっとしたかった問いかけを投げかけた。

「ねぇ、あなたの名前を教えてもらってもいい?」
「そういえば名乗ってなかったな。俺の名前はセレス。セレス・ティルヴィアだ。お前の名は?」
「私はリリスよ、リリス・サーシャ」
百合リリスか。いい名だな」

 そういって部屋を出て行くセレスの後姿を見ながら、リリスは自分の鼓動が早くなるのを感じた。名前を褒められたなんて初めてだったのだ。高揚していく感情に上手くついていけなくなって、リリスは枕に顔を伏せながらそっとお返しにつぶやいた。

 ――セレスもいい名前よ、と。






  


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