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四章  四つの想いは夜空に交わる 【3】



「ねぇ、セレス。私に手伝えることって何かない?」

 リリスがそう切り出したのは、昼同様にセレスが持ってきてくれた食事を二人で食べていたときのこと。何気ない会話の中に挟んだその言葉は、なぜかやけに部屋へ響く。

「私、セレスにお礼がしたいの。だから、何か私にできることはないかしら?」

 きっと、思いがけない言葉だったのだろう。セレスは驚いた顔をしたきり、黙ってしまった。

「セレス?」

 どうしたのかと思って怪訝な顔をしてリリスが呼びかける。だが難しい顔をした彼は口を一文字に結んだままだった。自分は何かいけないことを言ってしまったんだろうか、と不安になる。なんだか少し、セレスが怖い。無意識の拒絶をまとううセレスを前に、だんだんリリスの顔が曇っていく。人一倍他人の機嫌に敏感な彼女は、この短い間に自分の言葉が彼にとって快いものではなかったことを悟っていた。

「ごめんなさいセレス。迷惑な気持ちにさせるつもりはなかったの」

 とうとういたたまれなくなってそう切り出したリリスの言葉に、セレスはやっと顔を上げた。明らかに見て取れる困惑の表情に、やはり彼にとっては迷惑だったのだと理解する。リリスが素直にごめんなさいと繰り返すと、セレスは慌てたように否定の言葉を口にした。だがそれは同時に拒絶の言葉でもあった。

「違う。迷惑などではない。むしろその気持ちは嬉しい。ただ……これ以上俺に関わって欲しくないんだ」
「どうして? 足手まといだから? 役に立たないから? 私が、人間……だから……?」

(せっかく受け入れてもらえたと思ったのに。これからは傍にいても拒絶されないと思ったのに。どうしてそんなに悲しくなるようなことを言うの……)

 そう思って叫んだが、次に続けられる言葉もわかってしまった。彼が、自分を遠ざける訳――その、優しくも残酷な理由。

「そうじゃない。俺の傍にいれば、おまえは必ず危ない目に遭う。だから一緒には居られない」
「それでもいいの。私は、あなたの助けになりたい。私にできることをしたい。それは……だめなことなの?」

 自分はなんてあきらめの悪い奴なんだろう、とリリスは思う。こんなことはセレスを困らせるだけだ。それこそ迷惑になるかもしれない。どうして自分は、彼にはもう関わらないと言えないのだろう。なぜこんなにも彼の傍にいたいと思ってしまうのだろう。ともすれば泣いてしまいそうな自分を押さえながら、リリスはぐっと我慢してセレスの返事を待つ。

「……お願いだから、俺にもう関わらないと言ってくれ。俺にとって、それが一番の助けになるんだ」

 そして、セレスはリリスにとって一番優しく一番残酷な答えを告げた。

(そんな答え方はずるい。そういわれたら、私は頷くことしかできなくなってしまう。聞き分けのいい、良い子のふりをするしかなくなってしまう)

 俯くリリスの目の端にじわりと涙が浮かんだ。泣いちゃだめ、と必死に自分へと言い聞かせて唇を噛みしめ、嗚咽をこらえる。そうして一呼吸おいてから精一杯の笑顔を作り、セレスへと向き直った。

「わかったわ。セレスがそう言うんだったらそうする。どんな形でも、それがあなたの役に立つのなら」

 にっこり笑顔でそう告げると、セレスは浮かない表情のままにすまないと呟いた。彼に気を使わせないよう、気にしないでと告げる。すると、次はありがとうとお礼を言われた。

「謝ったと思ったら次はお礼を言うなんて、変なセレス」
「変とは失礼な。俺は十分まともだぞ」
「あら、そうかしら?」

 これ以上セレスに責任を感じさせないようにわざと明るく言った、リリスの軽口めいた台詞から、元の他愛のない話に戻る。それから何事もなかったかのように会話がかわされはじめた。上辺だけの笑顔、心地よいだけの言葉の掛け合い。それは遅いから寝ようか、とセレスが切り出すまで和やかに続いた。

「じゃあ俺は隣の部屋に戻る。何かあったら呼べ」
「わかった。そうするわ」

 素直にそうリリスが返事をすると、セレスは安心したように頷く。そして部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、何か思い出したように振り返った。

「何?」
「いや、その、明日はまともに歩けるようなら宿の近くまで送る。途中までしか行けなくてすまないが……」
「いいの? 送ってくれなくても大丈夫なのに。何から何まで本当にありがとう、セレス」
「礼には及ばない。元々おまえを巻き込んだのは俺だから、それぐらいは当たり前だ」

 セレスは最後の最後まで優しい。リリスはこのとき思い知った。度の過ぎた優しさは他人を傷つける刃物にもなりうるということを。彼の優しさに胸がいっぱいになり、思わずまた泣いてしまいそうになるが、それをどうにかこらえて言葉を継ぐ。

「うん、ありがとう。じゃあもう寝るわね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 柔らかく微笑んでから身を翻し、そうしてセレスはドアの向こうへと姿を消す。リリスは作り物の笑顔を貼り付けたまま、その後姿を見送った。




 ――そこまでがリリスの限界だった。

「……っ!」

 後から後から溢れ出る嗚咽を部屋の外に漏らさないよう、質素で薄い枕に精一杯顔を押し付ける。我慢してももう、涙が止まらない。まるで軋むようにみしみしと痛む胸はいまにも張り裂けてしまいそうだった。

「……っく、ぅえ……っ」

 彼の傍にいられなくなるというだけで、どうしてこんなにも悲しいのだろう。また、元の一人でいる生活に戻るだけなのに、なぜ。今までも一人でも大丈夫だったし、これからもそうして生きていこうと決めたはずだった。それが、自分のあるべき姿だと思っていた。それなのに、どうして身が引き裂かれそうなくらいに悲しいのだろうか。あの家を出る時も、叔父に見放された時も、ここまで悲しくはなかった。自分にとって、それよりつらいことなんてないはずなのに――。

 いつのまにか、セレスの存在は思っている以上に大きなものになっていた。自分が何もできないことは分かっている。足手まといにしかならないことも、彼は人間が嫌いだということも、 セレスの近くにいればこれからも危ない目にあうこともわかっていた。だが、それらをすべて理解した上で、自分は望んだのだ。

 彼の傍に居たい。
 彼のことをもっと知りたい。
 彼の支えになりたい。
 誰よりも優しく、誰よりも傷つきやすい彼の傍に居て、同じものを見てみたい。
 彼が私に与えてくれたものを、少しでもいいから返してあげたい。

 そう強く願った。彼もまた、自分と同じように孤独だったから。傷の舐め合いかもしれないが、少しは彼の力になれるかもしれない。そう思って、思い切って行ってみた。でも、自分がセレスと関わらないことが彼にとって一番の助けになるのなら、そのとおりにしようと思った。

(私はそれをかなえてあげられるように、自分の心は殺そう。彼が、そう望むのなら)

 ――それは自分を納得させるための方便だと、わかってはいたけれど。

 精一杯、聞き分けがいい振りをするから。これ以上、貴方を困らせたりはしないから。だから、今日だけは気の済むまで泣かせてほしい。明日、別れるときにないてしまわないように。

 ただそれだけを思い、己の気持ちをすべて吐き出してしまうように、リリスは泣き続けたのだった。






  


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