四章 四つの想いは夜空に交わる 【7】
あっという間に走り去ってしまったリリスの後姿を、セレスはしばらく見つめていた。
やがて人込みにまぎれてその姿が見えなくなってしまっても、ずっと。
彼女が傍らから居なくなってしまって、あとに残ったのはぽっかりと心の一部分が切り取られてしまったような空虚感だった。
「きっと……また泣かせてしまった」
自嘲気味にポツリと呟いた言葉は力なく風に流されていく。
彼女とは一緒に居られない、そう決めたのは自分。
変わっていくことを怖がって、彼女を手放すことを選んだのも自分。
なのに、やるせなさと寂しさだけがどんどん大きくなっていくのだ。
セレスは少しだけ前へと伸ばしかけていた手をぎゅっと握り締める。
さきほどリリスが別れを告げて走り出したとき、待ってほしいと一瞬だけ言いかけた。
そうして彼女を引きとめようと手を伸ばしかけたのだ。
すぐに自分が何をしようとしたのか気づいてその手を止めたけれど、あともう少しだけ手を伸ばしていたら、
きっと彼女の服の端は捕らえられただろう。
そう考えてから、自分はリリスを引き止めたかったのかと気づく。
彼女と一緒に居たいという想いは昨日断ち切ったはずだった。
未練などないと思っていた。
なのに気づけば彼女を傍に引きとめようとしていたとは。
まったく、なんて自分は浅はかなのだろう。
あまりに自分勝手な思考回路に、あきれてセレスは息をついた。
いったいどれが自分の本心なのか、まったくわからない。
もう、この選択が本当に正しかったのかさえわからなくなってしまった。
ずきりと痛む胸の奥にある想いは、はたしてどの想いなのだろう。
つめが食い込むくらいに握り締められた手を見つめ、セレスはただその場に立ち尽くしていた。
「自分の選択を後悔しているのかい?」
「――っ!!」
不意に後ろから投げかけられた言葉に驚いて振り返ると、まさか居るとは思って居なかった人物がそこに佇んでいた。
どうして、彼が。
こちらを見て面白そうに笑っていたのは、リリスが先ほど帰っていったスノードロップの主人だった。
「やぁ。あなたが後悔している顔なんて初めて見たよ。なかなか面白いものだねぇ」
「なぜお前がここにいる。あいつを――リリスを迎えてやるんじゃないのか」
半ば殺気に似たとげとげしさを隠すこともなく、セレスは主人に問いかけた。
昨日、金をやって使いにやらせた浮浪者が戻ってきて自分に告げた伝言では、彼はそう確かに言っていたはずだ。
なのに、なぜ彼がここにいる。
その意図はすぐに向こうにも伝わったらしい。
セレスの言葉に主人はおどけるように肩をすくめ、やれやれといった感じで返事を返す。
「本当はそのつもりだったんだよ。でも、私以上に適役が登場したからね。涙に濡れたお姫様を出迎えるのは
そちらに任せようと思ったのさ。で、お役御免の私はあなたを慰めに来たと言うわけだ」
「戯言はほどほどにしろ。殺されたいのか」
「おやおや本当の事なのに。それに殺すとは穏やかでないねぇ。せっかく私がしてあげたお膳立てを、
あなたはことごとく無駄にしてしまったというのに」
飄々とした口調に苛立ちながら、セレスはさらに殺気を露わにして吐き捨てる。
この男はいつもこうだ。
だから余計にイライラする。
「宿屋にいる間にあの子を喰っておけば、あの魔力は永遠にあなたのものになったのに。そうすれば、見境なく魔力を喰って
蓄積しているあなたの兄にも簡単に勝てたのにね。まったく惜しいことをしてくれたものだ」
「あいつを物みたいに言うんじゃない。俺が決めたんだ。あいつは巻き込まない、と」
「ふうん。まさか、恋愛感情でも抱いてるのかな?」
「俺が? あいつに? まさか。人間相手にそんなものを抱くなんてありえない」
主人の問いにそう返したものの、自分で答えたその返答になぜか胸がざわついた。
好き――なんていう感情を、セレスは人どころか誰にだって抱いたことはない。
だからその感情がどんなものであるかすら知らない。
けれど、リリスに対して形容し難い感情を抱いているのも事実だ。
もし、それがその感情だというのならば――。
「じゃあ、あなたが彼女を巻き込むのを厭うのは何故だい?」
「……」
「答えられないのだろう? 彼女に抱く想いを」
「そんなことはない。ただの――ただの、気まぐれだ」
我ながら苦しい言い逃れだと思ったが、この男に本心は絶対に悟らせたくない。
悟らせようものなら間違いなく利用しつくされるからだ。
そうなればきっと、またリリスを巻き込むことになる。
それだけは嫌だった。
「あなたもなかなか悪あがきをする。まあいい。私は私のやり方で事を進めさせてもらうだけだから」
「おい。あいつにだけは手を出すんじゃないぞ」
「さぁ、約束は出来かねる。私はあなたみたいに小娘へ情を移して本来の目的を忘れるような男ではないのでね」
相変わらずするりするりと逃れていく男の言葉に歯噛みする。
この男はセレスを思い通りに動かすため、リリスを利用する気でいる。
冗談ではない。
リリスを利用されてたまるものか。
そんな事をされるくらいなら、この男の口車に乗るぐらい容易いものだと思った。
「ふざけるな! あいつをどうする気だっ!!」
「おや、あなたが“青の妖魔”を倒してくれればいいだけの話だよ? そうすれば私はあの小娘なんぞに手を出す
必要はまったくないのだがねぇ」
「俺はそうするつもりだ! だからあいつに手を出すな!!」
「へぇ。対抗できるほどの魔力も持っていないのに?」
「そんなもの、なんとでもなる!」
「何とでもなる、か。よほどあのお嬢さんが気に入ったみたいだねぇ。ならば、君に猶予をあげよう」
その言葉と同時に、すうっと主人の纏う空気が変わる。
表情はまったく変わっておらず笑みをたたえたままなのに、その実目は笑っていない。
――この男は本気だ。
相手の弱点をつかんだら最後、捉えて離さない猛獣のような男。
弱点を見せてしまった者は、従うことしか許されない。
「一週間。一週間の間にあなたが“青の妖魔”を倒せたなら、約束どおりあの子には手を出さないよ。
――でももし、それが果たせなかったら」
次に紡がれる言葉は分かっていた。
そういう男だとは、最初から知っている。
人間のくせに、セレスよりも妖魔らしい冷酷な思考を持つ男だという事を。
「私はあの子の血と魔力を使って妖魔を倒す。まぁその場合――まず命を奪うことになるだろうけどね」
選ぶ事のできない選択を突きつけられ、セレスは怒りだけをたぎらせた。
できるなら、この男を今すぐ殺してしまいたかった。
けれどこんなところでそれをしてしまえば、セレスも青の妖魔同様、人に徒なす妖魔として追討されることになるだろう。
そうなれば、リリスにだって迷惑がかかるかもしれない。
だから、セレスは男の望む選択をする事になる。
「一週間で倒して見せよう。そうすれば――あいつに手は出さないんだな?」
「約束するよ」
「ならば、お前の望むとおりに」
屈辱には屈しないという意思を伝えるように、セレスは男をにらんだままそう答えた。
その選択をする事でリリスを救えるなら、自分は彼女を守る。
――たとえ自分の命をかけてでも、必ず。
それは初めて明確に自覚したリリスへの想いだった。
けれど、まだ――その感情が何であるかを理解するのは先の事。