六章  紅き饗宴は藍天の下で踊る 【4】




むくり、と闇は暗く湿った洞窟の中で身を起こした。

鋭敏な感覚が伝えてくるのは、蕩けんばかりに美味しそうな魔力の匂いだった。

それはあまりにも刺激が強すぎて、麻薬のように闇の感覚を侵していく。

――ああ、この魔力の匂いは。

闇はこの匂いに覚えがあった。

少しほど前に出来損ないの弟に邪魔をされ、食べ損なった極上の魔力だ。

あの時は獲物を横取りされて少し傷まで負わされてしまったが、今ではすっかり傷が癒え、魔力も十分に回復している。

注意深く闇は魔力以外の気配も探ってみた。

もしもそこにいるのが弟なら、すこしは出方を伺うべきだ思ったからだ。

けれどその憂いに反して分かったのは、かなり匂いは劣るものの他にも魔力を有するものがいるらしいということだった。

それにどうやら人間と鉄の匂いがたくさんした。

「おろかな虫けらどもめ――我を退治に来たか」

その気配にもまったくひるむことなく、妖魔はくつくつと笑った。

これは罠だ。

そう理解したけれど、取るに足らぬ虫けらが束になってかかってきたところで痛くも痒くもない。

何なら目の前にぶら下げられた獲物だけ美味しく頂いて帰ろう。そう思った。

魔力のにおいがするほうへ目を向けると、ちょうど日が沈もうとしているところだった。

夜になると魔力が増す妖魔は狩の時間にもちょうどいい、などと考えながら、凝り固まった体を伸ばす。

そうして闇は一声大きく吼えると背中の羽を大きく広げ、空中へと飛び立った。

草原の中で目印のように火がたくさん焚かれているところを目指して。







再び自らの手に意識を取り戻したのは、夕方も近くになってからのことだった。

ガタガタと揺られて運ばれていく感覚に覚醒を促されて目を覚ますと、リリスはすぐに自分がどこに運ばれているのかを悟った。

うつ伏せで寝かされているために身動きが取れず、外の景色は確認することができないが、砂利道を走っているような音がするのでもうヘパティカは出ているのだろう。

がたがた揺れる音と馬の蹄が土を蹴る音が聞こえてくることから、自分が乗っているのは馬車らしいと分かる。

相変わらず息苦しさが体にまとわりついていて、うまく思考回路が回らないが、自分が置かれた状況は嫌というほど理解できた。

「やぁ起きたかい、お姫様。楽しい宴が始まるまでに起きてもらえて何よりだよ」

「……ランディ、さん……」

「私が憎くてたまらないという顔をしているね。いい表情(かお)だ」

「……っ!」

すい、と視界に現れ、上から覗き込んできたのはランディだった。

挑発するかのような言葉にぎりぎりと唇をかみ締めたリリスを、楽しそうにランディは見つめていた。

そうして自然に自分のほうへと伸ばされた手は、シャラリと鎖を絡めとる。

その動作に付随して、両手首が操り人形のように持ち上げられた。

そこでようやくもう片方の手首にも銀の腕輪がはめられ、まるで手錠のように二つの腕輪が鎖でつながれていることを知る。

ランディがその鎖をもてあそぶように指で動かすと、心なしか息苦しさがさらに増したように感じられ、空気を求めてリリスが喘ぐ。

その様を見つめてまたランディは笑った。

「苦しいかもしれないけど、今はまだはずして上げられないよ。現地に着いたら苦しくない腕輪と交換してあげるから、それまで待ってほしいな」

「腕輪なんかなくたって……逃げ、ないわ。だから、おねが、い、これを……はずして」

「それは無理な相談だ。前も行ったけど、これは君が逃げるのを防ぐためじゃないからね。転送魔法で送ってあげられなかったから、 これをつけてる時間が増えちゃったのはかわいそうだけど、もう目的地に着くから少しだけ待っておいで。――ああほら、ついたよ」

ランディの言葉のあと、がたがた、がたんとひときわ大きく振動が伝わってきたかと思うと、それはようやく止まった。

一言二言御者と言葉を交わしたランディは鎖から手を離し、体のほうへと手を伸ばす。

いったい何をされるのかと一瞬身を竦ませたが乱暴なことは何もされず、身動きが取れない状態のリリスはあっという間に軽々と持ち上げられた。

「あの……っ、じ、自分で歩けるから……っ」

横抱きにされて、おぼつかない浮遊感と頼りなさからリリスがとっさにそう叫ぶ。

けれどそんな言葉は聞こえなかったかのようにさらりと無視をして、ランディはそのまま開かれた馬車のドアから外へ出た。

そうして目の前に広がった光景にリリスは思わず息をのむ。

ずらりと並ぶ兵士たち、青い長衣――聖なる色である青の衣は王から下賜される王宮付き魔法使いの証だ――を纏った人々、焚かれている多数の篝火。

まるで戦でも始まるかのような重々しい空気に気おされ、リリスはただ言葉を無くした。

ランディはリリスを横抱きにしたまま兵士たちの前を突っ切り、魔法使いたちの近くまで歩いていく。

ようやく顔が判別できるようになるまで近づくと、その面々にリリスは大きく目を見開いた。

「アイラ……エリシア……セイン……!?」

確認するまでもなく、見覚えのある者たちが三人いるのが分かった。

それもそのはず、アイラとセインはリリスの弟妹、エリシアは従姉妹だったのだから。

もう二度と呼ぶことはないと思っていたその名を呼ぶと、彼らはようやくリリスのほうに視線を向けた。

けれどそれは、リリスがある程度は予期していたものの、それを遥かに上回る感情が含まれている。

弟妹たちがリリスに向けたのは、同情でも哀れみでも憐憫でもない。

畏怖すら抱かずに入られないほどの侮蔑と嘲笑が入り混じった冷たい視線だった。

「――ただの餌のくせに気安く呼ばないで下さいな。私はサーシャ家当主の長女。あなたみたいな平民が気軽に呼び捨てできるような低い身分じゃなくてよ」

「ここまで落ちぶれるとは逆に尊敬するわね。元・次期当主サマ」

「おまけに妖魔に惚れちゃうとかいったいどれだけ恥さらせば気が済むわけ? そんな人に姉貴面されるなんて反吐が出る」

リリスと年の近いサーシャ家の子供たちの中でもすばらしい成績を修めており、若干十五歳と十四歳で王宮付き魔法使いの仲間入りをした彼らはそれぞれ エリシアとセインが「白銀」、アイラが「落陽」の二つ名を授かっている魔法使いだった。

アルに聞いていたこの作戦の通達でもその名は出ていたはずなのに、そのときはまったく頭に入っていなかったらしい。

――気づいたとしても、何が変わるわけではなかったけれど。

そんなことを考えながら、ただリリスは唇をかみ締めたままいわれるがままになっていた。

自分が一族のものに抱く恐怖感は今もそのままだった。

小さい頃から植えつけられたものはそうそうすぐになくなるわけではないと、改めてそう感じさせられる。

「こらこら、あまり苛めてはいけないよ。エリシア、彼女を連れてあそこの岩の前まで行きなさい。 ――ああ、逃げ出してはいけないからセインも一緒に行くといい。岩まで付いたら腕輪をはずしてこれを首につけるんだ。分かったね?」

「はい、分かりました。――来なさい、自分の足でさっさと歩くのよ」

地面にそっとリリスを下ろすと、ランディは腕にはめたものより少しばかり大きな金の輪を二人に手渡す。

するとリリスを追い立てるようにして、エリシアとセインは指示されたとおりに岩へと向かった。

まだ腕輪による息苦しさが抜けず、ふらつきながらゆっくりと進むと、程なく人間の背丈は越えるような大岩の元へ着いた。

「さぁ、手を出しなさい。そう、動いたら承知しないわよ」

エリシアに威圧しながら命令され、リリスは唯々諾々とそれに従う。

逆らえば何をされるか分からない。そんな恐怖感が体を支配していた。

小さく二言、三言セインが言葉をつぶやき、指を腕輪に当てるとそれは簡単に手首からするりと抜け落ちる。

ようやく抜け出せた息苦しさから開放され、リリスは安堵の息を吐いた。

けれど、それからさらに言葉が紡がれると、今度はリリスの体の自由が一気に奪われた。

苦しくはないものの、金縛りにあったように体が動かなくなってしまう。

驚いて視線を跳ね上げると、冷ややかな視線が二つ、リリスを見下ろしていた。

「万が一逃げられたら困るから。ほら、首から上は自由にしてあげてるだろ。これをはめやすいように頭を下げてよ」

酷い――そう思ったけれど半ば屈辱的な言葉にもしたがうほかはなく、リリスはゆっくりと首を下げる。

すると少しばかり乱暴に首飾りにも見えるような金の輪がはめられた。

今度は腕輪みたいに苦しくはない。

その事実にリリスは安心し、そっと詰めていた息を吐き出した。

けれど、変化が起こったのはそれからまもなくしてからだった。

最初は気づかなかったが、やがてじわじわと体の熱が上がり始める。

程なく、体のどこもかしこも焼け付くように熱く感じられるほどその熱は増してきた。

「な……に……?」

「餌は目立ってもらわなきゃ困るだろ? それは魔力増幅装置だよ。化け物みたいに魔力があるアンタのことだから、 体が耐え切れなくなってもしかしたら理性ぶっ飛ぶかもしれないけど――ま、我慢しといて」

「そん、な……」

「じゃ、せいぜい頑張って妖魔をおびき寄せてよね。さよなら、姉さん」

あっけないほどあっさりと酷い台詞をはなってくるりと向けられた背に、リリスは声にならない叫びを上げた。

待って、いかないで。

たすけて。

頭の中までぐるぐると熱が回り、零された言葉はもはやかすかな吐息でしかなくなっていた。

迫り来る熱に意識が朦朧とし始め、思考があいまいになっていく。

だれか、だれかたすけて。

そんな祈りはどこにも届かない。

暗転する視界の端で最後に見たものは、なぜか美しい空色だった。






  


inserted by FC2 system