六章 紅き饗宴は藍天の下で踊る 【10】
体が、頭の中が、すべてが熱い。
気づけばリリスの意識は何も見えない暗闇の中に落ちていた。
どこかしこも熱い暗闇は底知れない恐怖を誘う。
加えてすべてを焼き尽くしてしまうような熱さが思考をさえぎり、今までの記憶をあっという間にぼやかしていく。
熱湯の中をたゆたっているような感覚に包まれて声にならない悲鳴をあげながら、リリスは必死に耐えた。
ここで意識をつなぎとめておかなければ、もう二度と戻れないような気がしたから。
そう考えてみて、はたと気づいた。
いったい自分はどこに戻りたいのだろう。
不意に、熱さに侵されていく視界の裏にひらめいたのは、何よりも美しい、青。
たとえるなら嵐の後に雲間からのぞく、どこまでも澄みきった水色。
リリスが何よりも好きになった、大切な大切な空の色だ。
それに──次々と思い出されていくのは、いつしか何より大切になってしまったひとのもの。
泣き虫な自分の涙を、いつだって優しくぬぐってくれた武骨な手。
光に透かすと絹糸のように輝いた銀の髪。
大切なものを扱うようにそっと抱きしめてくれた腕。
命がけで自分を守ってくれた大きくて広い背中。
どんなときもリリスを安心させてくれる、低くて柔らかな声。
今までずっと灰色だった世界に色をつけてくれたひとがたくさん自分にくれたものはどれも大切で、愛しくて。
ただ逢えなくなることがこんなにも怖くて切ないのだとおしえてくれた、ひと。
だからこそ、今までどんな人ともあまり関わらないようにしてきた自分が、初めて自分から関わりを持ち、すべてを知りたいと思った。
──そして今、リリスを護るために罠だと知ってもここへ駆けつけ、窮地に陥っているであろうひとのことを思うと胸が痛くなる。
おそらくランディの口ぶりが本当なら、今頃彼は王宮付き魔法使いたちに捕まってしまっているはずだ。
いくら半妖魔であっても四組の魔法使いたちに勝てはしない。
そうなれば、彼に残された路はひとつしかなくなってしまう。
彼に自らそれを選ばせてしまうのも、それしか選ぶものがなくなってしまうのもリリスは嫌だった。
彼の力になりたいと思ったのに、自分は彼の足手まといにしかなっていない。
彼はどんなときでも命をかけて護ってくれたけれど、いつだって自分は護られてばかりでしかなかった。
自分を護ってくれる背中を見るのはもう嫌だ。
自分だって大切なひとが傷つくのは見たくない。
護られてばかりではなく、彼の隣に立ち、彼の力になりたいと思った。
そのために、世界で最後の一人になっても、あのひとを選ぶ覚悟を決めた。
いつも不器用で一生懸命な感情を精一杯向けてくれた、優しいひとを。
だから、早く彼がいる世界へ戻らなくてはいけない。
こんな暗闇が広がるところではなく、セレスのいる場所──リリスの大好きな、抜けるように青い空がある場所へ。
けれどその願いはあざ笑うかのごとく押し寄せてきた熱の波に押し流されて、リリスの手の届かないところへと行ってしまいそうになる。
必死で押しとどめようとする意思に反して、ひときわ激しい熱は意識をどんどんおぼろげにさせていく。
ああ、待って。
私に彼のそばへ戻らせて。
この手で、セレスを傷つける全てのものから彼を護らせて。
それ以上はもう何も望まない、だから──。
薄れていく意識の中で、ただリリスはただひたすらにそう願った。
渦巻く熱量のなかで、その望みだけが最後の砦となって意識をつなぎとめていた。
いったい、どれだけ自分を焼き尽くそうとする熱に耐えていただろう。
不意に耳へ届いたのは、いつだって全力でリリスの力になると言ってくれた、大切な親友たちの声だった。
『こっちへきなさい、リリス。彼があなたの目覚めを待っているわよ──……』
『早くおいで。僕らが道をつくってあげるから……』
ありったけの力を振り絞って上を見上げると、黒一色で塗りつぶされていた世界に一筋の光が差し込んでいた。
それは唯一無二の二人の友人たちが示してくれた、たった一つの救いの手。
だから、あの光を目指していけばきっともとの世界に戻れると思った。
熱から逃れるように上へと登っていくと、光はだんだん大きくなっていく。
あともう少しだと必死に光を目指すと、少しずつ体を焼く熱が弱まっていった。
そうしてたどり着いた光の中へ、思いっきりリリスは飛び込んだ。
とたん、ぱあっと広がった白い光が視界を満たした。
一瞬何もわからなくなった意識は、ほどなく体を覆っていた熱がなくなったのを感じてもどってきた。
それでもなかなか意識は体になじむことができず、すぐに戻らない視界と感覚がもどかしくて仕方がなかった。
早く彼の存在を確認したくて、音にならない声が何度も何度もその名を呼ぶ。
そうしてやっと定まらない焦点のまま開いた目に映ったのは、渦を巻く鋭利な風の刃。
空気を切り裂いて進む音が耳の中に響く。
けれどそれを理解するまえに、空色と銀色が視界にひらめいた。
上がった悲鳴は自分の口から出たものか、傍らの二人がこぼしたものか。
目の前に広がる、ひたすら鮮やかな紅い色。
いったいこれが何なのか考える間もなく、開けた世界にはっきりと映しだされたのはゆっくりと倒れていくひとの姿。
──あれは、だれ?
地面に広がっていくものは、何?
頭が真っ白になって、状況を理解することを拒絶する。
目の前で倒れた人が、銀色の髪で空色の瞳をしていても、絶対にセレスなのだと信じたくはなかった。
できるなら誰か嘘だと言って欲しい。
為す術もなく地面に広がっていく紅いものを、受け入れたくはない。
何もかも認めたくはなくて、けれど目の前に広がる光景を無視することもできなかった。
ただ操り人形のようにふらりと立ち上がり、何も考えられないままにそばへと駆け寄る。
おぼつかない足取りなのは急に立ち上がったせいか、受け入れがたい事実を受け入れるのが怖いからか、わからない。
もう、何もかもがわからない。
けれど、どうして、と訊くまでもなくリリスは彼が目の前で倒れているわけを理解する。
背中に生えた大きな翼も、彼の体も痛々しいほどに傷だらけなのに、意識を失っていた自分はまったくの無傷。
それが何よりも全てを物語っていた。
自分はまた護られたのだ。
あれだけ護りたいと、力になりたいと願った、そのひとに。
急に滲んでいく視界をどうすることもできなくて、そばまでたどり着くと崩れ落ちるように膝を折った。
見上げてくる瞳はやっぱり優しい色で、ただ泣くことしかできないリリスにやわらかく笑いかけてゆっくりと手を伸ばす。
けれどそれはあともうちょっとというところでととかず、空中でとまってしまう。
こんなときまで涙をぬぐおうとしてくれる彼は誰よりも愛しくて、切なくて。
涙で定まらない視界の中で揺れる手はどんどん涙でぬれていくままだったけれど、セレスはどこか満足げにさえ見える笑みを浮かべていた。
それを見て、リリスはこの目の前のものが全て現実なのだということを理解する。
こんなにも簡単に大切なものが手のひらから零れ落ちていってしまうなんて思っていなくて、ただ強制的に頭へ叩き込まれた事実に衝撃を受けた。
何とかして彼の体から流れ出す血を止められたなら。
消えていく命をとどめられたなら。
けれど今のリリスになす術などまったくわからない。
ただ小さな子供がいやいやするように頭を振って泣くことしかできなくて、そんな自分が何よりも情けなかった。
そうして次の瞬間、吐息のように零された言葉に全ての言葉を失った。
「もう、二度と目覚めないんじゃないかと思って怖かった。最後まで護ってやれなくてすまない。さよなら、だ─……」
その言葉を最後に、伸ばされていた手はぱたりと地に落ちた。
ゆっくりと閉じられていくまぶたが目に映って、リリスは必死でセレスに取りすがる。
それでも二度とその瞳が開かれることはなく、握った手のひらは握り返されないままだった。