草原は燃ゆる恋の詩をうたう




許されない、恋をした。
風のように馬を駆る姿に、太陽のような笑顔に、誰も寄せ付けない気高き強さと限りない優しさに。
生涯で、たった一度の恋だった。
貴方を初めて見たときに感じた、焼け付くように強烈な感情の名を私は知らない。
ただ、強く強く魂が揺さぶられるほどに惹かれた。
その綺麗な瞳にずっと私の姿を映していて。
低く柔らかな声でもっと名前を呼んで。
そうして彼のすべてを感じていたい。
一度だけでも、どうしてそう願ってしまったのだろう。
幸せな夢なんて、見ることすら許されないのに。
絶対に叶わない恋だとわかっていたけれど、それでもよかった。
ただその姿を見ているだけで、貴方を想うだけで。
けれどその恋もすべて明日で終わる。
ああ、すべての父なる天の神、母なる大地の神よ。
もしも私のたった一つの願いを聞き届けてくれるなら。
どうか一晩だけでいいのです。
私を草原の民をまとめる女族長ではなく、ただの少女になることをお許しください――……。



夜の虫が奏でる涼やかな音色が、張りつめた空気を震わせる。
時折それに答えるように風が草を揺らし、草原を駆け抜けていく。
そっと一歩踏み出すと夜闇の中で足下の枯れ草が乾いた音を立てた。
いたずらな風が髪を揺らすついでに運んでくるのは、人々の歌声とかき鳴らされる様々な楽器の音色。
その方向を振り返ると、多数の天幕(ユルト)が取り囲む広場に今なお赤々と燃え続ける大がかりな篝火が幾つも見える。
先ほどまでその中心で声を張り上げていた少女は、醒めやらぬざわめきに小さく息を吐いた。
――明日は私が彼らの先頭に立って皆を導かなければならないのだ。
そう思って何とか自分を奮い立たせようとしてみたが、気分はますます沈むばかりだった。
憂かない気分を振り払うかのように踵を返し、明るくにぎやかな広場とは反対に静まりかえる天幕の間を抜けていくと、やがて視界が開けて目の前に大草原が広がる。
見上げると深紺の空に散りばめられた星々が細かいところまではっきり見えるほど、明かりから離れた場所に来ていた。
「……ツァガル」
愛馬の名を闇に向かって呼びかけると、すぐに聞き慣れたいななきが聞こえる。
こっちだと呼ぶ鳴き声を頼りに馬の繋がれた杭に近づき、手早く綱を解くと、早く行こうと言わんばかりにツァガルは鼻を鳴らした。
少女が慣れた動作でひらりと背にまたがると、それを待っていたように馬は走り出す。
蹄が大地を蹴る音と、風を切って進む音が体を包む。
馬で草原を駆ける時に感じるこの一体感が、少女は何よりも好きだった。
ある時は疾風のように全力で駆け、ある時は緩やかな速駆けでゆっくり進む。
家族であり親友である馬の名を少女が呼ぶと、いななきがそれに答えた。
そうして言葉なき会話を交わし、一人と一頭は風の如く草原を駆ける。
気づけばどこを目指すでなく、少女はただ一心不乱に馬を駆っていた。


ようやく手綱を引いてツァガルの歩みを止めたのは、いったいどれほど駆けたあとだっただろう。
昇り始めたばかりだった月はいつの間にか天高くあがり、煌々とあたりを照らしていた。
心地よい風が火照った体の熱を少しずつ冷ましていくのを楽しみながら、ゆっくりと馬を進める。
自分が行る場所を把握するために周りに何か目印がないか探すと、風が草を揺らすのとはまた違う音が切れ切れに聞こえてきた。
――この、音は。
聞き慣れた音の方向に顔を向けると、少し先にほんの僅かだけ、きらきらと光るところが見えた。
逸る心を抑えて進むと、やがて開けた視界に、自分の判断が間違っていなかったことを知る。
そこには乾いた大草原にある唯一の湖――エル・カウラが見渡す限り広がっていた。
湖面に映り込む星々は、あたかも空と大地がひっくり返ったかのような錯覚を起こさせる。
まさに「草原の宝石箱(エル・カウラ)」の名にふさわしいこの湖は、様々な顔を持つ草原の中でも特に好きな場所の一つだった。
自分にとっては特別な意味を持つ、思い入れのあるところ。
ここへ来れば、大きな空の下で自分を見ているものは誰もいない。
だからこそ、草原の民をまとめる族長という衣を脱ぎ捨てて、ただの少女へとなれる。
それを求めて無意識でここに向かってしまったのか、ツァガルがここへ連れてきてくれたのかは、わからなかったけれど。
そんなことを考えながら岸辺の近くで馬を止め、足下を確認してからひらりと飛び降りると、濡れた砂が足の下で音をたてる。
ひっきりなしに寄せては返っていく細波の音色に耳を傾けながら水辺の際までいくと、湖面を吹き渡ってきた涼やかな風がふわりと頬をなでた。
草や風や虫の声――大地に息づく様々なものたちの奏でる音を体で感じながら、ゆっくり目を閉じる。
自分を取り巻く世界の感覚に身をゆだねると、まるで大地に溶け込んだかのような一体感が体を包んでいく。
「父なる天よ、どうか明日の私に限りなき武運を。母なる大地よ、この地を守る我らに聖なる加護を……」
思わず零れたのはそんな言葉。
そっとその場に跪くと湖の中心を向き、祈りを捧げる。
――明日、この草原で生きる者達の命運が決まる。
だからそう願わずにはいられなかった。
「精霊の宿る湖(セムツェン・ラウラ)」――古くからその別名でも敬われてきたこの湖でなら、叶う気がしたから。



長い祈りを途切れさせたのは、突然鋭くいなないたツァガルの声だった。
明らかに危険を知らせるその声に、すばやく立ち上がって背中の弓に手を伸ばす。
視界の中でかすかに動いた人影に狙いを定めるように矢をつがえ、矢弦を引き絞る。
だが闇の中から聞こえてきた声は予想に反したものだった。
「待ってください、私です」
「その声、は……」
「そうです。草原の女王……セルディンカ・ツェン・グンナンさま」
思わず頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
ああ、その声は。
変わらぬ優しい声で私の名を呼ぶ彼は――。
「貴燕(きえん)……! 本当に、貴燕なのか……?!」
「もう私の声をお忘れになったのですか?」
「私が貴燕の声を忘れるはずなどないだろう……っ」
気持ちがうまく言葉にならなくてもどかしい。
次から次に溢れ出してくる感情に声を詰まらせながら、少しでも早く近づきたくて彼の傍へと走り寄る。
けれどその足は、手を伸ばせば触れるか触れないかというところで止まった。
「セルディンカさま?」
「――だめだ。私は草原の民の長だ。敵と馴れ合うわけにはいかない……」
怪訝に返す貴燕の言葉に、そう返すのが精一杯だった。
ともすれば伸ばしてしまいそうになる手をぎゅっと握り締めて、唇をかみ締めながらその場でうつむく。
相反する感情が胸のうちでさざめいて苦しい。
それでもこれ以上動くわけにはいかなかった。
一度手をとってしまったら、もう二度と離せないだろう。
動いてしまえば、手を伸ばしてしまえば、一族を裏切ることになる。
けれど貴燕は、いつだって間に作った壁を壊してやすやすとこっちへきてしまうのだ。
「それではこうお呼びしましょう。セオ・リンティ――これでもう貴女は草原の民の長ではない。ただの一人の少女です」
呼ばれた名前はセルディンカの幼名だった。
それと共に呼び起こされるのは、一年ほど前の甘酸っぱい記憶。
草原の端に位置する交易の街に忍びで遊びに行ったセルディンカは、数人の暴漢に襲われた。
武器を置いてきてしまったために反撃できず、そのまま連れ去られてしまいそうになった自分を助けてくれたのが彼だった。
リンティは、初めて出逢った貴燕に明かせない本名の代わりに名乗った名前だ。
そのときはまだ、自分と貴燕が草原の長と敵国の将として戦うことになるとは思っていなかった。
―― 一週間後、「自国に従属しろ」という文を携えて自分に会いに来た貴燕とまみえるまでは。
けれど誇り高き草原の民はどこの国にも従属しない。
だから、彼の国と戦うことを決めたのだ。
たとえ愛しい人と、刃を交えることになっても。
なのに――なのに、どうして、この人は。
揺れる想いに戸惑うセルディンカに、貴燕がそっと手を伸ばす。
本当なら拒まなければいけないのに、どうしてもできない。
もし、貴燕の言うとおり今このときだけセルディンカではなくリンティになれるなら――そう思って、伸ばされた手を受け入れる。
どこまでも優しく頬に触れる手の温もりはずっと待ち焦がれていたものだ。
そのうち触れられるだけであることに耐え切れなくなって、こちらからも手を伸ばす。
体温を少しでも多く感じ合いたくて、いつの間にかどちらからともなく抱き合う形になっていた。
言葉は要らない。
今はただその温もりさえあればいい。
体を突き動かしていたのはそんな想いだけだった。
泣きながら口づけた貴燕の唇は限りなく甘くて、体中を蕩かすかのような熱を残していく。
今だけでいい。
私に刹那の夢を見せて。
何も考えられないくらい激しく触れて。
貴方のすべてで私を満たして。
いつまでも覚えていられるように、私の体に熱を刻んで。
そうしないと、きっと私は何もかも放り出して貴方を追いかけていってしまうから――。




終わりの時はすぐにやってきた。
後ろ髪を惹かれるような想いでセルディンカがツァガルにまたがると、貴燕もまた自分の馬へ乗る。
なかなか離れ難くて、距離をとるようにして互いに向き合い、視線を絡めあう。
沈黙を破ったのは、貴燕が差し出した右手だった。
「貴女が望むなら、いつでも私はその手をとりましょう。そうして誰にも捕まらないところまで、連れて行ってあげます」
柔らかな微笑とともに告げられたのはそんな言葉だ。
私が頷かないのを――頷くことができないと知っているはずなのに。
それでもこれは、きっと彼なりの気遣いなのだろう。
なかなか決心がつかない私の心に踏ん切りをつけさせるための、精一杯の優しさなのだ。
「……できないよ。私が民を見捨てればこの草原の部族は滅びてしまう。そんなことは耐えられない」
「そう答えると思っていました。私が好きになったのはそんな貴女ですから。愛しています――誰よりも気高く美しき草原の女王。 そしてさようなら、我が愛しき少女リンティ」
泣きそうな、それでいてどこまでも温かい笑顔で彼は言う。
ああ、これは私が好きになった貴燕だ。
太陽のように温かい、見ていると幸せになるような笑顔。
目を閉じてその顔をしっかり心に焼き付けながら、手綱を引いて馬首を返した。

「            」

そうしてもう後ろを振り向かず、夜闇に向かって走り出す。
心はもう揺らぐことなく、ただひとつの決心だけを胸にセルディンカは草原を駆けた。



その場に残された男は、それからもしばらく少女が消えていった方向を見つめていた。
彼女が男に残した言葉はあまりにも最後を飾るには不器用で、どこまでも彼女らしかった。
「それが貴女の望みなら、喜んでかなえましょう。その代わり――私にも貴女をくださいね……」
そうつぶやいた男の声は、どこまでも広がる夜空に溶けて消えていった。






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