約束の奏でる音色は強く儚く




薄い紅色に染まりかけた空の下、村のはずれの大樹のそばに、二人の人影が少し離れたところで向かい合い、静かにたたずんでいた。

片方の娘は長い栗色の髪を風になびかせ、澄んだ榛色の瞳を伏せて立っている。
もう片方の青年は魔導師と呼ばれる職業の者が多く着る、フード付きの長いマントを深々と被っていた。


風が梢を揺らす音に支配されていた二人の間の沈黙は、しばしの後に娘が零した問いかけによって終わりを告げる。


「どうしても……行ってしまうの?」
「あぁ。もう俺がここにとどまる意味は、どこにもないから。」
「そう……。」


青年の言葉に、かすかな希望すら見いだせなかった娘は静かにうなだれた。


わかっていた。
いつか彼が出て行ってしまうことは。
そのために前々から覚悟して、決して彼を引き留めてはならない、と決めたのに。


彼は村に縛られ一生をそこで過ごす自分たちとは違う。
彼は流浪の魔導師だ。
この村にとどまることはできない。

それがわかっていたから。
彼を引き留めることはしちゃいけないと知っていたから、笑顔で見送ろうと決めたのに。
笑顔で見送らなきゃ、いけないのに──……。


決心と感情は時として伴うことはなく、娘は思い通りにならない感情に歯噛みする。
青年はそんな葛藤を知ってか知らずか、感情を映さぬ涼やかな黒い瞳で娘を見つめ、静かに告げた。


「もう行く。日が暮れる前に次の村へ着かないといけない。──少し、急ぐ。」
「うん……。」
「じゃあ。長い間、世話になった。」
「……うん、」


なんの未練も感じさせずにくるりと娘に背を向け、青年は歩き出した。

笑顔どころか今にも泣き出しそうな娘は、まだ二・三メートルしか離れていない青年に走り寄り、 長いマントをつかんで無理矢理にでも引き留めたい衝動を必死に抑えて立っていた。
そこを動かないのが精一杯で、なかなか言葉が紡げない。

――でも、これだけは。
娘は別れが来たら必ず言おうと決めていた言葉を、だいぶ離れてしまった青年の背へ向けて叫んだ。


「わたし……っ、忘れてない! いつまでも覚えてるから……!!」


涙混じりの声が紡ぐ言葉に、青年はぴたりと足を止めた。

それを見て娘は確信する。
大丈夫、わたしと同じように、彼も忘れていない。
今となっては遙か昔のように思える、数週間前の出来事を。

あの時交わした『約束』は今も彼の胸の中にある。


娘はそれさえわかれば、もう十分だった。


「どんなに時がたってもわたしの心は変わらない! だから……!!」


再び歩き出した人影に向けて、娘は心からの言葉を叫んだ。
どうか少しでも彼の氷に覆われた心に届きますように、そう望みながら。

そうやって娘に見送られながら人影は米粒ほどになり、点になり、やがては緑の裾野へ消えていった。



だが娘の表情は最初と違って明るい。
迷いがすっかり断ち切られたようなすがすがしい、それでいて少しだけ寂しさを帯びたような顔で、 娘は一つ一つの言葉をかみしめるようにぽつりぽつりと呟いた。


「『約束』……したんだからね。絶対だよ……。」


そうして娘は村の方へと歩き出した。


『信じてる。』──かすかな風に乗せて娘の言葉に応えた青年の、確かな言葉を胸に抱いて。










わたし、待つわ、ずっと。

誰もあなたを待っててくれなくなっても、必要としてくれなくなっても。

ただわたしだけは、あなたを待って、必要としているから。


わたしとあなたが出会ったとき、あなたは流浪の魔導師だった。

そのとき村を苦しめていた呪いを、通りすがったあなたは一生懸命解こうとしてくれた。

その呪いは解くのがとても難しくて、あなたは長い間この村へとどまらなくてはならなかった。

でも、あなたはどれだけ長くこの村へ滞在することになっても、村人とほとんど関わろうとしなかった。

わたしがあなたの世話を任されて色々なことをしていたときも、あなたはわたしを拒絶はしなかったけれど、 受け入れもしなかった。

いいえ、あなたはどんな他人だって受け入れようとしなかった。

本名すら呼ばれることを嫌って明かさず、いつだって孤独で。

わたしがいつしかあなたを好きになり気持ちを伝えても、あなたの態度は全く変わらなかった。


けれど、とうとう呪いが解けてあなたがこの地を出て行くと決めたとき、どんなときでも他人に一切かかわろうとせず、 何も望まなかったあなたがたった一度だけ自分の名前を告げて、わたしに願ったでしょう。

『俺は一所にとどまれない。だからおまえは俺の帰りなんか待たないで、ほかの男を作れ。

でも、もし俺が疲れておまえのところに帰ってきたら。

おまえだけは、俺の最後に帰る場所でいてほしい。

俺が帰ってきたときに拒絶せず、名前で呼んでほしい。』


それは最初で最後の約束。

あれだけ自分は名前を呼ばれるのを拒否して他人にも心を許さなかったのに、と拗ねるようにつぶやいたら、 あなたはぽつりとこぼした。

『怖かったから』と。


力を持つ魔導師は救いにもなるけれど、同時に災いをももたらす。

彼らは一般人から見ると、畏怖され嫌われる存在なのだ。

きっと彼が好きになった人もいただろう。

彼が信用した人もいただろう。

けれど、その人たちの中には彼を裏切り、憎む人もいたに違いない。

そうしてそれが繰り返されるうちに、彼は人を信じられなくなった。

人を信じること、好きになること自体に恐怖を持つようになった。

だから彼は自分から人に距離を置くようになった。

嫌われても、疎まれても、傷つかないように。

そうするうちに、たとえわたしのように好きだと言ってくれる人間がいても、いつか裏切られるのが怖くて信じられなくなった。


けれどあなたは、最後にわたしを信じてくれた。

あの約束は、なにもわたしに望まなかったあなたの、初めての望み。

わたしはそれが嬉しかった。

初めて、あなたに必要とされていることがわかったの。

だからあなたは自分の道を進めばいい。

そうして疲れたとき、ふと帰る場所を思い出して、ふらりとわたしのところへ帰ってきてくれたなら。


わたしはいつだってあなたの名前を呼んで、あなたの望みを訊く。

いつまでもいつまでも。

たとえどこにもあなたの味方がいなくなっても。

わたしだけは、ずっとあなたの味方だから──……。






inserted by FC2 system