四章 日没は宴の始まりを告げる 【3】
昼間に比べるとぐっと人通りの減った大通りを照らす街灯は、闇夜の下で煌々と明るく輝いている。
そのうえ、研究所が立ち並ぶこの区画は、夜が更けてもにそこかしこの建物で明かりがついていた。
そこを、ふらふらと歩く少女がいた。
いくら治安のよいヘパティカとはいえ、この歳の少女がうろつくには少々時間が遅い。
けれど少女にあまり目をとめる者はいない。
このあたりを歩くのは皆、遅くなった帰路につく研究者たちばかりで、そんなことにはこれっぽっちも興味がなかったからだ。
それは、二つの意味で少女にとって幸いといえた。
襲われる心配がないこと――そして、誰か目をとめる者がいれば、間違いなく少女が泣いていると分かっただろうから。
盗み聞きするつもりなどなかった。
ただ目が醒めて眠れなくなってしまったから、伯父と伯母のところへ行って話をしようと思っただけなのだ。
まず、かすかに開いていた扉の向こうから聞こえた言葉は“青の妖魔”というものだった。
驚いてそっとドアの前で息を潜めると、あまり聞いたことのないくらいに感情的な伯母の声が聞こえる。
『リリスは……あの子は弟の方の“青の妖魔”を愛してしまっているのよ……!』
弟のほうの“青の妖魔”?
私は昼間にセレスは違うと、そういったはずなのに。
なぜ彼をそんな風に呼ぶのだろう。
それに、私がセレスを愛している――?
伯母は確かにそういった。
私がセレスに抱く気持ち。
それはいったい何なのか、自分にさえ分からない。
彼のことを考えると胸が熱くなり、動悸が激しくなるこの感情を、愛しているというのだろうか?
伯母の言葉にそんなことを考えながら、リリスは伯父の次の言葉を聞き取ろうとドアへと耳を押し当てた。
そうしないと、故意に押し殺しているような伯父の声は聞き取りにくいのだ。
『待て、まだそうと決まったわけじゃない。あの子から話を聞いてみないことには──』
『あの子の目を見ればわかるわ! もう決めてしまっているのね、自分のすべてを委ねてもいいと思える人を……』
『セレナ……』
伯母をこんなにも苛立たせている原因は何なのだろう。
伯父をこれほどは気のない人にしたのは何なのだろう。
私の所為?
セレスの所為?
“青の妖魔”の所為?
それとも――。
そんな思考は机が叩かれた大きな音と、次に聞こえてきた言葉ですべて吹き飛んだ。
『それを、私たちが殺さなければならないのよ……!』
目の前が、真っ白になる。
伯母の言っている意味が理解できなかった――否、理解したくなかった。
ソレヲ、ワタシタチガコロサナケレバナラナイノヨ――……!
意味を成さない言葉の塊だけが、ただ思考回路を通り過ぎていく。
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように全身が寒くなり、足が震える。
そのせいか、まるで真冬の廊下にいるみたいに体がガタガタ震えて強張る。
とっさに体重を支えられなくなってたたらを踏むと、足の下で床が軋む音が大きく響いた。
だめ、見つかってしまう。
瞬時にそう感じたが、意に反して足は動かないままだった。
部屋の中からこちらに向かう足音が聞こえ、やがて目の前の扉が開く。
息をのむ音とともに伯父と伯母がこちらを見つめた。
その驚愕する表情――リリスにこの話を聞かれてしまったという後悔と驚きが入り混じったもの――で、リリスはこの話が真実であると悟る。
するとなぜか急に二人が怖く思え、思わず距離をとるようによろよろと後退った。
『……っ』
二人と一人の間で時が止まる。
でも、リリスは一瞬でも早くこの場から逃げ出したくて、動かない体を無理やり動かして廊下を駆けた。
足がもつれそうになるけれど、今この場で転べば二人に捕まるのは確実だ。
それだけは嫌だった。
何も考えられない頭の隅で体を動かし、階段を下りる。
伯父や伯母もリリスに追いつこうと走るものの、どうやら追いついてまではこれないようだった。
とにかく、今はこの場所を、そして二人の元から離れたかった。
ただそれだけを胸に、リリスは無我夢中で走り続ける。
そのため、いま自分がどこを走っていてどこに向かっているのか、さっぱり分からない。
もう、何がなんだか分からなくて。
考えることすら忘れてしまったようで。
ありとあらゆる感情が入り乱れているかのように、今リリスの心の中はぐちゃぐちゃだった。
気付けばみたこともない区画に迷い込んでいた。
大きな建物がたくさん立ち並び、そこかしこから機会音や明かりが漏れる、夜には似つかわしい賑やかなところ。
いつの間にか鉛のように重くなってしまった足でふらふらと歩きながら、リリスはいくあてもなく建物の間をさ迷い歩いた。
けれどそれも長くは続かない。
一歩前へ踏み出すごとに重くなる足と体に負け、とうとうリリスはひとつの建物の壁にもたれるようにして座り込んでしまった。
「ちょっと……ちょっと、休むだけ……」
そうつぶやいて、知らず知らずのうちに目を閉じる。
泣き過ぎて腫れていたまぶたを重力に従って落とすと、少しだけ楽になった気がした。
そうすることは、どこか望みのない願いにも似ていた。
どうかこれがただの夢でありますように。
今度起きたら、全部元に戻っていますように――。