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四章  四つの想いは夜空に交わる 【4】



 同じころ、セレスは浮かない顔をしてベッドの縁に座っていた。

「これでいい。お前をこれ以上、危ない目にあわせたくないんだ」

 そう自分に言い聞かせるように呟かれた声は、空しく部屋に響く。選択は正しかった、リリスのためにはこれがいいのだと思おうとしたが、できなかった。自分にはもう関わるな、と告げたときのリリスの泣きそうな表情が脳裏に焼きついて離れない。セレスは苛立ったように、グシャグシャと髪をかき回す。彼女の声が、表情が、どれだけ振り払おうとしても頭にちらついて仕方なかった。

 あの表情を見ると、どうにも落ち着かなくさせられる。自分は彼女に何もしてやれないという無力さを思い知らされるのだ。セレスは大きくため息をつき、ゆっくり目を閉じた。脳裏に焼きつくイメージを遮断するように暗転した視界の中で、ゆっくりと思考を巡らせる。だが不意に耳に飛び込んできたのは、かすかな声だった。

「あいつの……声……?」

 聞きなれた声に眉をひそめる。何かあったのだろうか。だが耳をそばだてて音を聞き取ると、そうではないことがわかった。途切れ途切れに聞こえてくる声――それは確かに泣き声だった。何かに顔を押し付け、必死で声を押し殺して泣いているような、かすかな嗚咽。皮肉なことに、妖魔の血を引き人間よりも五感が優れている自分だからこそ聞き取れる、ほんのわずかな音だ。セレスは今ほど自分の血を呪ったことはなかった。

 泣かせたのは間違いなく、自分だ。誰よりも孤独な彼女が救いを求めた者――それがセレスだったのに、自分はその手を拒んだ。あまつさえ、彼女の言葉を利用して、心にもない言葉を優しさのオブラートに包んで彼女に突きつけた。彼女を傷つける答えでしかないとわかっていた。それなのに、結果的には一番中途半端で残酷な方法を選んでしまった。

 セレスにはもう、自分が本当はどうしたいのかわからなくなっていた。人間は嫌いだ。彼女が近くに居ても、自分の足手まといにしかならないとも思う。今までは人間など対等に接する価値がないとすら思っていたし、その考えは一生変わらない。そう思っていた。彼女を護りたい、そばにいてやりたいと望むなんてあり得ないことだった。

 ありえなかった、はずなのに。今、自分はリリスの手を取ってやらなかったことに罪悪感を抱いている。どうして彼女だけ、泣いている顔を見ると落ち着かなくなるのだろう。なぜ、あのとき自分の命をかけてでも、リリスを護りたいと思ったのだろう。考えれば考えるほど見失う心に思考を乱されるばかりで、ちっとも考えがまとまらない。

 ただ言えるのは、リリスを泣かせたくないと思う自分がいること。そして、なぜか彼女の傍にいると気持ちが楽だということ。素直で裏表のない彼女と接するときだけは、よけいな気を張らなくてすむということ。そのことに心地よさを感じ、彼女の傍にいたいと思う自分は確かにいる。なにより、もしまた彼女が何者かにねらわれたり襲われたりしたとき、自分は彼女を命がけで護ろうとするだろう。

 それは今までの自分の生き方を否定するものであり、これからの生き方を大きく変えていくものだった。自分の目的――兄をこの手で討ち取り、両親を殺された敵をとること。それが生きる理由であり、セレスの生き方そのものだ。だが自分が一度リリスの傍にいることを選んでしまえば、それすらも犠牲にして彼女を護りたいと思ってしまうだろう。だからセレスは彼女の手を取ることが出来なかった。取ることが怖かったのだ。

 自分の生き様を変えてしまえるほどの存在と共にいることが怖くて、一緒にいればいるほど変わっていく自分が許せなくて、彼女の手を拒んだ。それがただの逃げでしかないことはわかっている。それでもやっぱり、今の自分にここから一歩踏み出すための勇気を持つことはできなかった。

「すまない……」

 彼女の手を取ってやれなかった自分を許して欲しい。彼女を救ってやれるほどの強さを持っていない自分を許して欲しい。それは甘えでしかないかもしれない。だが今のセレスには謝ることしかできなかった。

 そうして思った。こんなにも泣く彼女の声を否が応でも耳が拾ってしまうのは、きっと自分に下された罰なのだと。彼女を救ってやれなかった自分への戒めなのだ、と。

 ならば自分はその戒めを甘んじて受けよう。せめてもの償いに、受け入れてやれない彼女の悲しみに耳を傾けよう。そう決めたセレスはその夜、泣き疲れたリリスが眠りに落ちるまでの間、ずっと起きていたのだった。






  


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